古代の地方行政府、国府

国府は奈良・平安時代、中央の朝廷が地方を治めるために設けた計画的な政治都市で、
当時の政治・経済・文化の中心地でありました。
この付近一帯は、古代の計画的な土地区画整理事業ともいえる「条里制」が実施され、
整然とした区割りがあったとされています。




そして国衙は、中央から派遣された「国司」が地方行政を行った施設です。国庁とも呼ばれます。
国衙の周囲の一定区域を「国府」といいます。国衙の「衙」は、役所という意味です。
当時、六〇余りに分かれた国ごとに置かれていた役所であり、「国府」とか「府中」の地名が全国各地に伝わっています。




これは因幡国庁跡なのですが、国府域には政務を執る国庁の建物をはじめ、
官人の館・軍団の兵舎・兵器庫・倉庫・軍馬や駅馬の牧・各種の工房などが置かれていました。
このうち、国庁は朝廷の出先機関であり、国司の政務機関でありました。




この時代の政治は、中国の唐から学んだ律令といわれる法律によって行われていましたが、
この国庁も天武・持統両天皇の時代に整えられ、大宝元年(七〇一)の「大宝律令」の施行とともに完成しました。





現在の法律でいえば、「律」は刑法、「令」は行政法にあたり、国の仕組みを定めたもので、
当時の国家は朝廷を中心とする中央集権体制でありました。
地方の国庁はあくまで中央政府出先機関です。現在の県庁が地方自治体の機関であるのとは、性格を異にしています。





また、中央政府出先機関である国庁の長官は、中央政府から派遣された国守で、任期は四年、
国内の政治・経済・軍事の全般にわたる政務を統括し、国内の税を中央に貢納する役目もになっていました。
上国である因幡の国守には、中央でも名前の知られた上級貴族出身で、位も従五位クラスの高位の官人が任命されていました。





国庁の官人を国司といい、長官の「守かみ」のほかに、次官の「介すけ」、事務主任の「掾じょう」、
四等書記官の「目さかん」、その下の書記官の「史生しじょう」があり、ほかに国学の教官の「国博士」「国医師」、
僧官の「国師」がおり、「陰陽師おんようし」や「弩師おおゆみし」なども勤務していたものと見られています。





そして、一般的に国府は方八丁(一辺約八百八十メートル)の広さがあり、そのほぼ中心地に
設けられた国庁は、全国的に見るとほぼ画一的な構成となっています。
それは溝、柵、築地などで囲まれた一区画のなかに、正殿と前殿および後殿、
それに東西の脇殿が建てられ、その周囲には国庁の官人が住む館が並んでいたとされています。
また、伯耆国衙の場合、南より南門・前殿・正殿・後殿を配置し、正殿の東西に細長い脇殿と、
脇殿の南側に楼閣風建物を設けていました。建物はすべて掘立柱建物で、正殿を中心にコの字状に
建物を配置するのが特長です。
これは平城宮などの大極殿と朝堂院などの殿舎配置と共通したものをもち、政治の中心的な性格を強く表わしています。





それから、国に国衙が置かれていたように、郡にも役所が設置されていました。
郡の役所は「郡家ぐうけ」と呼ばれる場合が多いですが、国の役所である国衙との対応から「郡衙ぐんが」とも呼称されています。
郡衙に勤務する役人が「郡司ぐんじ」で、大領・少領・主政・主帳の四等官からなります。
郡司は、国司が中央からの派遣官で任期があるのに対し、地方豪族から任命され、終身その任に就きました。




中央の平城宮跡と地方の因幡国庁跡を比較しながら国府についてまとめてみました。
ほぼ同じ角度から撮りました。
中央と地方ではスケールが違いすぎますよね。