伯耆国庁跡

風まじり  雨降る夜の  雨まじり  雪降る夜は  術もなく  寒くしあれば   堅塩を
取つづしろひ  糟湯酒(かすゆざけ)  うちすすろひて  咳ぶかひ  鼻びしびしに  しかとあらぬ
鬚(ひげ)かき撫でて  吾を置きて  人はあらじと  誇ろへど  寒くしあれば  麻ぶすま  
引きかがふり  布肩衣(ぬのかたぎぬ)  有りのことごと  着添へども  寒き夜すらを  我よりも
貧しき人の  父母は  飢ゑ寒ゆらむ  妻子どもは  乞ふ乞ふ泣くらむ  この時は  
如何にしつつか  汝が世は渡る‥‥  



これは伯耆国守を経験した山上憶良が、晩年の天平四年(七三二)の冬ごろ作った『貧窮問答歌』です。


ここは伯耆国庁跡です。 以前、付近にある『法華寺畑遺跡』を国庁跡と間違えてしまったんですが、ここがその場所です。
この竹の杭の打ちこんであるこの辺りに正殿や後殿や脇殿などの建物があったようです。

そして今はこのようでございます。


  


貧窮問答歌は二人の男がそれぞれの貧しさを語り合う姿が歌われています。
この前段の男は雪の降る夜、寒さをしのぐために精製していない固まった塩を肴に糟湯酒をすすり、
麻の寝具をひっかぶり、ありったけの「布肩衣」を重ね着して寝るという。


そして自分より貧しい後段の男に、父母が飢えて横になり、妻子が物を求めて泣いたらどうするのかと問います。
この男、寒さをしのぐために酒も飲めない貧しさながら、“しかとあらぬ 鬚かき撫でて 吾を置きて 人はあらじと 誇ろへど” と、威張る気持ちを持っています。
郷(里)長ないし村長クラスの人物なのでしょうか。憶良自身との説もありますが、五位の位階を持つ憶良の生活水準はかなり高く、歌に詠まれているようなものではないようです。



歌の背景には、伯耆守および筑前守時代の経験があったと考えられます。
特に伯耆国では憶良が守として赴任する二年ほど前、和銅七年(七一四)十月に大風が吹き、家屋が飛ばされる被害を受けていました。このとき、被害を受けたのは伯耆国だけではなく、播磨国伊予国美濃国武蔵国下野国に及びますが、被害の規模は相当大きかったようで、各国ともその年の税が免除されています。




律令国家の根幹である税が免除されるほどの被害を受けた伯耆国、憶良が着任する霊亀二年(七一六)ごろには立ち直っていたのでしょうか。
仮に旧に復していたとしても、後遺症が残っていたと思われます。
もしかすると、この時の体験が貧窮問答歌に反映されているのかもしれません。