笏と長屋王

仏教説話集である『日本霊異記』には長屋王について、
天平元年二月八日、元興寺の大法会で衆僧に仕える司に任じられた長屋王は、一人の沙弥(しゃみ)が
濫りがわしく供養の飯を受けているのを見て、象牙の笏(しゃく)で沙弥の頭を打ちつけた。
沙弥は血を流し、恨めしげに泣きながら姿を消した。
その二日後、長屋王は讒言によって謀反の疑いをかけられ、自害を強いられた。
自らの高徳を恃んで、賤しい姿の沙弥をうった為に悪死を得たのである…
と、このように記されているようです。



笏は儀礼に際して官人が手ににぎり威儀(いぎ)を正すための長方形の板のことで、
内側に必要事項を記した笏紙を貼り、忘失の備えとするのが本来の使用法です。

律令制下では笏をもつことのできる地位に制限があり、
養老令では初位(そい)以上に把笏(はしゃく)が許され、五位以上は牙笏、六位以下は木笏でした…。

その後、把笏の対象はしだいに拡大し、郡司の主政・主帳や軍毅、あるいは雑任の史生などにも把笏が認められました。


日本霊異記長屋王の話は説話ですので事実ではないようですが、
周知のように、この二日後に長屋王の変は起こります。

神亀六年(七二九)二月十日、漆部君足中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学び、国家をかたむけようとしている」
との密告により、その日のうちに式部卿藤原宇合らが六衛府の兵を率いて長屋王宅を囲みました。
翌十一日には藤原武智麻呂らに糾問され、十二日に妻子とともに自害するに至りました。
それから十年後には、事件が冤罪であることが判明します…。


最近、大河ドラマについていろいろ思うようになってきたのですが、
この長屋王藤原四子の時代を描いてみるのも面白いかなと思います。
あと、桓武天皇の治世の平安遷都ですとか、元明天皇の治世の平城遷都とか、
壮大な歴史ドラマが出来あがると思うのですが…。
もっといろんなところに焦点をあてればまだまだあると思います…。
今後に期待したいと思います。