城崎温泉の歴史 1

城崎温泉兵庫県北部、但馬を代表するいで湯です。
古くから文人墨客に愛され、レトロな街並みが若い人たちにも受けているようです。


伝説の世界では、城崎温泉は今から約千三百五十年前の欽明天皇の時代に、初めて登場します。
傷ついたコウノトリが、水たまりで傷をいやして飛び立ったのを村人が見つけ、
水たまりに近寄ってみると湯が湧いていた…。
というお話しです。
また、動物が温泉発見のきっかけとなったとする伝統は、全国いたるところに残っているようです。



そして、キノサキの名が出てくるもっとも古い史料は、奈良・平城宮跡から出土した木簡です。
これには但馬国城埼郡那佐郷の地名が記され、神護慶雲三年(七六九)の年号をもつ但馬国からの
荷物(税)に付された札でありました。
城埼をキノサキと訓じることは、平安時代の書物である『和名類聚抄』によって「木乃佐木」と読まれてあることからも間違いないところのようです。
この点、他地域にみられるような城崎をキサキと読むのとは異なっています。
城崎という地名は、丹波京都府船井郡のほか、肥前国佐喜郡(佐賀県)にも「木佐岐」、
常陸国久慈郡(茨城県)の「木前」など、全国に十か所以上ありますが、いずれも「きさき」と読み
「きのさき」と読むのは但馬だけのようです。



また、城崎温泉が文書に初めて登場したのは、十世紀はじめに成立した古今和歌集です。


“ たぢまのくにのゆへまかりける時に、ふたみのうらといふ所にとまりて、

ゆふさりのかれいひたうべけるに、ともにありける人々うたよみけるついでによめる

夕づくよおぼつかなきをたくましげふたみの浦はあけてこそ見め ”


詠み人は藤原兼輔(八七七〜九三三)。兼輔は平安時代の代表的な歌人で、柿本人麻呂山部赤人
万葉歌人と並んで三十六歌仙の一人に加えられています。

この歌は「但馬の国の湯へ行ったとき、二見の浦という所に泊って、夕飯の干した飯を食べながら、
同行の人々が歌を詠んだついでに詠んだ」もの。
歌の意味は「今は夕暮れではっきりしないから、二見の浦は夜が明けてから見るがいい」となります。



平安時代の十世紀ごろ、藤原兼輔ら都の一流の貴族が峠を越え、川を渡って城崎へ足を運んだ事実は、すでに“但馬の湯”が京都でかなり知られていたことを示しています。