城崎温泉の歴史 2

地下から自然に熱い湯が湧く。しかもそれは飲んでも浴しても身体に効く。
古代の人は、そこに、人間以上の不思議な霊力をもつもの、つまり、“神”の恵みを感じ、
やがて、温泉そのものを神として崇拝するようになったようです。


全国の古い温泉地にみられる温泉神社・湯(とう)泉神社・湯神社など、俗称、湯ぜんさまは、
そうして生まれたもので、たとえば、『風土記』『続日本紀』をはじめとする六国史延喜式神名帳など
古文献にも、出雲の玉造の湯の社・下野国温泉神・肥前国温泉神・摂津国有馬郡湯泉神社・伊予国
温泉郡湯神社などとみえていますが、これらはいずれも現在の玉造・那須・・雲仙・有馬・道後など、

歴史の古い著名な温泉地の温泉神で、創立は非常に古く、
祭神は主として医薬療病の道を開いたと神話にある“大己貴命”と“少彦名命”であります。



いっぽう仏教の流布とともに「温浴によって保健衛生を保ち、容姿端麗になり、人に尊敬されるように
なる」と温浴の功徳を説く『温室経』という経典の教えや、神仏習合思想の影響によって奈良時代中期
ごろより温泉と仏教との関係も生じ、やがて温泉地には病苦個疾を治すといわれる薬師如来衆生
一切の苦厄を救済するという観音菩薩などを祀る堂宇が建てられ、温泉寺・医王寺などと称せられる
ようになり、、古い温泉地には、いわゆる温泉神社(湯ぜんさま)と温泉寺(薬師さま)が併存し、

本地垂迹思想の発展とともに、ますます神仏混淆の形態を深めていくようになりました。



そしてこの城崎の温泉寺縁起によれば、
和銅元年(七〇六)、城崎の住人日生下権守(ひうけごんのかみ)は夢のお告げで四所神社を建てた。
養老元年(七一七)、道智上人がこの地を訪れ、四所明神の神託を受けて千日の修行の末、

“まんだら湯”を湧出させた。
 ☆“まんだら湯”は現在ある六ヶ所の外湯のうちの一つ。
そのころ奈良の都にいた仏師、稽文(けいぶん)は、大和初瀬(奈良県桜井市)の長谷寺の本尊と同じ木で、初瀬にある長薬寺の本尊仏を作っていた。ところが制作途中に中風にかかり、、未完成のまま納めたため、近辺はその祟りで悪病がはやった。困った人々は、天平六年(七三四)、その本尊を難波の浦に流した。
めぐりめぐって、中風の治療のため城崎に来ていた稽文は、円山川左岸の観音浦で偶然流れ着いたその未完の本尊と再会。本尊を完成させ、道智上人に処置を任せて都へ帰った。上人はいったん城崎の弁天山に本尊を安置したが、本尊仏の眉間から出た光が照らしだした山の中腹に寺を建て、時の聖武天皇はこの話しを聞いて温泉寺と命名した」
とこのように記されているようです。


また、戦国時代の一五二九年三月八日、温泉寺から出土した高倉天皇直筆の額や法華経などが都に
到着し、この日宮中で女房や公家たちに公開されたようです。
温泉寺は前年の一二月二四日に炎上しました。そのとき、塔の下を掘り返してみると、縁起書に書かれ
ていた通り、諸財宝が出土したといいます。
高倉天皇直筆といわれる奉納額には「閻宮(えんまぐう)慈心坊」としるされており、黄銅(こがね)・白銅(しろがね)・赤銅(あかがね)の三重の箱に入れられた法華経が各一部ずつみつかりました。
人びとは、「希得のことなり」と感嘆しあったようです。