大和〜明日香路 旅日記 1

思ったよりも早く、その機会を得ることができました。
計画的には、あと一カ月先にするはずだったのですが、
主任に連休を頂き、これを逃すことはできないと思い、
すこし早く赴いてみることにしました。


明日香の里をおとずれる前に、奈良の唐招提寺に足を運んでみました。
最近、古代へ、深くより深く気持ちが傾いて行く自分。
少しづつ頭の中で形ができつつあります。
奈良で大学四年間を過ごしたからこそ、その遠い過去の華やいだ時代が気になるのです。
今でも友と語り合うと、永遠に続くと思われた大学四年間だったのです。



大学時代にも一度訪れているんですが、記憶がおぼろげになってしまっています。
あらためて自分の目で確かめてみると、このお寺、伽藍はどっしりとしていてとても重厚な感じがします。

戒壇の手前に、蓮の花が一輪、ひときわ目立ちました。




唐招提寺戒壇です。





鑑真は、六八八年に中国揚州で誕生し、十四歳の時、
揚州の大雲寺で出家したといいます。



“聞いて曰く、日本国の長屋王、仏法を崇敬し、千の袈裟を造り、来りてこの国の大聴衆僧に施す。
その袈裟の縁の上に、四句を繡着して曰く、「山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁」
此をもって思量するに、誠に是れ、仏法興隆し、有縁の国なり…”



これは、鑑真の伝記である『唐大和上東征伝』のなかにある記述です。
天平十四年(七四二)、わが国の僧、栄叡(えいえい)と普照(ふしょう)が揚州に赴き、
鑑真に戒律を伝えるために来日を懇請したとき、鑑真がこのように語ったというものです。



長屋王が千枚の袈裟を中国の高僧に贈ったというエピソードで、袈裟の縁には
「山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁」という刺繡がさせてあり、
「住んでいる場所は異なるが、気持ちは同じ。仏の縁を結ぼう」という友好のメッセージのようです。
そしてこれは鑑真が来日を決心した一因ともいわれます。


この、長屋王が袈裟を中国の高僧に贈ったということが事実かどうか、
まだ古代の歴史についてあさはかな自分が論評できることではありませんのでおいておくこととします。




七五三年十二月、鑑真は六度目の航海で遂に来朝を果たしました。
翌年和上は東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武太上天皇をはじめ四百余人の僧俗に戒を授けました。
これは日本初の正式受戒です。鑑真和上は東大寺で五年を過ごされたのち、
七五八年大和上の称号を賜りました。そして、平城京右京五条二坊の地、新田部親王の旧宅地を賜り、
七五九年(天平宝治三)八月戒律の専修道場を創建されました。
これが現在の律宗総本山唐招提寺のはじまりです。



鑑真が創建した寺ということで、ぜひとも訪れてみたかったのです。



この時代、幾人かの外国の僧が日本を訪れています。

唐招提寺を拝観したあと、そこからそう遠くはない大安寺を訪れてみました。




婆羅門僧正(ばらもんそうじょう)ともいわれる菩提僊那(ぼだいせんな)は奈良時代に来朝した
インドの僧で、在唐中に日本の入唐僧理鏡らの要請を受けて、
道璿(どうせん)・仏哲(ぶつてつ)らと七三六年(天平八)来朝、行基に迎えられて大安寺に入りました。
七五一年僧正に任命され、翌年には東大寺大仏の開眼師を勤めています。
菩提僊那は大安寺で没し、登美山の右僕射林に葬られたそうです。



大安寺は南都七大寺の一つ。
天武朝以来の大官大寺を大安寺と改称、平城遷都にともない七一六年(霊亀二)から
平城京左京六条四坊の地に造営が開始され、天平年間に完成したといわれます。