大和〜明日香路 旅日記 2
今まで、京都が好きで平安時代が好きな自分でした。
七九四年という門の向こうを覗いてみる気もなかった。
ブログを始めてしばらく、以前から気になっていた因幡国庁跡と、
因幡万葉歴史館に足を運んで出会った“大伴家持”。
僕が大学四年間を過ごした奈良の地に、足を運ばせてみる気にさせてくれたのは家持でした。
そこからこうして古代へ、より深く古代へと心が赴いて来たのです。
今はすっかりいにしえの明日香の風に吹かれています。
明日香村に入る前に、藤原宮跡に立ち寄ってみました。
大伴家持が国司として三年半を過ごした因幡国。
この因幡国府周辺には“因幡三山”と呼ばれる三つの小高い山があります。
面影山(おもかげやま)、甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)の三山です。
これらの山は奈良盆地の耳成山(みみなしやま)、畝傍山(うねびやま)、天香具山(あめのかぐやま)の
大和三山になぞらえて“因幡三山”と名付けられたといいます。
因幡国府を囲む因幡三山、藤原京を囲む大和三山。
では、
その三山を、
眺めてみたいと思います。
因幡万葉歴史館、“時の塔”より。
藤原宮跡は、この天香具山、畝傍山、耳成山の大和三山に囲まれた中心部にあります。
都城制という言葉があります。
日本古代に採用された首都の基本構造で、天皇の住まいや官衙を中心とする宮城と、
条坊が施行されて官人をはじめ民衆の居住区となった京とで構成されました。
ふつうこの両者をそなえたものを都城といいます。
記紀や金石文によれば、日本では五世紀にはすでに「宮」が存在したと推定されますが、
条坊を伴う京の出現は七世紀後半からです。
改新の詔にうかがわれる難波京や天武朝の倭京に日本の都城制の完成をみる見解も
ありますが、持統朝の藤原京ではじめて成立し、平城京で本格的に展開したとするのが
通説のようです。
その藤原京は、それまでの歴代遷宮を否定した日本初の本格的都城でした。
当時は“藤原京”という名称はなく、新益京と呼ばれていたようですね。
以前、伊福吉部徳足比売(いふきべのとこたりひめ)の記事を公開しました。
因幡の地に勢力を張っていた伊福部氏が朝廷に貢進した采女と考えられています。
彼女は文武天皇の時代に仕えたようですので、
この空間を行き来していたのでしょう。
慶雲四年(七〇七)、従七位下を贈られたが、翌和銅元年(七〇八)七月一日、大和で亡くなったということです。
采女の 袖吹きかへす…
その歌が詠まれた地は、ここからあと少し…
意外にも早く、憧れていた空の下に立つことができました。