大和〜明日香路 旅日記 3

大学時代に、たしか訪れたことがあると思いながら、
その場所へ行ってみました。
でも記憶が確実ではありません。
クラブで明日香村に遊びに来た時にこの目で見たような気がするのです。


借りてきたレンタサイクルをこいでいくと、
骨董品を置いているような店や、歴史館風の建物がところどころにあり、
ひっそりと静かな村のなかをぬけて行くと、
道が上っていくではありませんか。
大学の時に来た時は、のどかな平地のなかにあったような気がしたのですが、
ここは少々小高い土地です。
山すそをほんの少し上ったところでした。


石舞台古墳、六世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子の墓ではないかともいわれてるようです。
築造は七世紀の初め頃と推定されています。


こんな小高いところにあったのかと疑問に思い、
また大学時代の記憶を思い起こしてみました。
記憶と実際に来て見た場所とがちがうということは、ひょっとすれば訪れてなかったのかもしれません。
大学時代のいくつもの記憶の断片が混同され、また時間の経過とも重なって、
訪れたような錯覚をおこしているのかもしれません。


こう見ると、なにか生き物のようにも見えます。




そして下にこんな石室があるとは知りませんでした。



雨上がりの石舞台古墳、少ししっとりしていますね。
石舞台を後にし…



石舞台から少し下ってもと来た道をたどり、ある横道に入るとこの標識に出合いました。
最近は、めったに乗ることもなくなってしまったんですが、
自転車というのは車とちがって、細い小道でもするするっと行けてしまうので、
いろんな発見があり、その土地の景観や地形をしっかりと確かめることができます。



歴代遷宮、古代国家では天皇一代で都を移転する習慣があり、
この明日香村岡付近にもいくつかの宮が営まれていたようです。



そしてここは明日香板蓋(いたぶき)宮跡のようです。



なぜ歴代遷宮の習慣があったのか。
諸説あるようですが、最大の理由は天皇が有力豪族の支配から脱しきれなかったからではないでしょうか。



僕は万葉集の歌を、ほんのうわべだけかじっただけなのかも知れませんが、
その中でもひとつ、とても好きな歌があります。
ずっとこの歌をたよりに、こうして明日香の地を訪れたのです。
ここは板蓋宮跡。すると追い求めていた歌の石碑がここにあるではありませんか。
まえぶれもなく出合ってしまったのです。
ほんとうはこんな蒸し暑い時ではなく、
稲が黄金色に輝き、すすきの穂が咲き乱れる秋に訪れたほうがこの歌には似つかわしいと思います。
でも、あえて歌ってみましょうか。





采女の 袖吹きかへす 明日香風
  都を遠み いたづらに吹く

                   志貴皇子




かつての宮は藤原宮に遷されて、華やいだこの地もそれは過去のこととなり、
むなしく風だけが吹き抜けていたのでしょう。栄枯盛衰という言葉も浮かんできます。
そして采女たちも藤原宮に移って行ったのでしょうか。


ひんやりと澄んだ秋風が吹く頃に、もし、機会あって訪れることがあるなら、
その時はまたここで、心のなかでこの歌を詠みあげてみたいと思います。