万葉集 巻二 一〇五

万葉集では夏・冬の歌に比べて春・秋の歌がはるかに多いようです。
また、秋の歌は春よりも一段と多く、万葉人はこよなく秋を好んだようです。
次の歌も、秋に作られた歌です。



“ 我が背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露に 我が立ち濡れし ”
 
この歌に素直に感動し、ここに到るストーリーに心惹かれて行きました。
歌意は、
「私の愛しい弟を大和へ帰さなければならないと、見送りに出たまま、
    夜が更けて明け方近くまで立ちつくし、暁の露に私は濡れた。」


そして、
“二人行けど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ”
の歌とともに、「大津皇子、窃(ひそ)かに伊勢の神宮に下りて上り来る時に、大伯皇女の作らす歌二首」
との題詞をもっています。



天武天皇が亡くなった翌月の十月二日、
謀反(草壁皇子を殺そうとする)が発覚した大津皇子は逮捕され、皇子の計画に加わったとみられる
三十人あまりの人びともとらえられた。
翌三日、皇子は二十四歳の若い命を絶ちました。
一つ違いの兄、草壁皇子との間に皇位継承について問題があったようです。


大津皇子は成長するにしたがって、優れた資質を現し、人望も厚く、
皇太子草壁、その母である持統にとって危険な人物であり、抹殺される運命にありました。
大津の謀反は皇太子側の謀略であったともいわれますが、
最近では多くの流血を避けるために大津自らが謀反の罪での死を望んだとの説もあるようです。


謀反発覚の直前、ひそかに都を離れ、斎宮として伊勢の神宮に奏仕している姉の大伯皇女のもとに赴いたのです。
この時大津が姉に何をどのように告げたかは知る由もありませんが、大伯はすべてを察したと思われます。
大伯が十三歳で斎宮に卜定されて以来、姉弟にとって、十数年ぶりの再会であると同時に最後の逢いでもありました。
「暁」は、この歌の詠作時期、秋分のころならば午前三時から四時ごろのこと。
弟を「我が背子」と呼ぶ作者の悲恋にも似た絶唱が胸を打ちます。



まだまだ暑いですが、夜、静まり返ると、窓のそとから秋の虫の鳴き声が響いてきます。
一三二五年前の今頃、飛鳥浄御原の宮では天武天皇の“もがり”が行われていたでしょう。
これから深まっていく秋を今思います。