紅
そこは、実際は海なのですが、
川でした。
そこに降り立ってみてそう思いました。
しかも、ふつうの川の流れではなく、
大雨の降った後の川の流れのような、
それほどの流れの速さなのです。
見ていて恐ろしいぐらいに、
すさまじい勢いでした。
この関門橋の架かっている辺りはむこうから岬がはりだしていて海峡の幅がせまくなっているため、
とくにこの辺りは潮の流れが速いようです。
ここは、壇ノ浦です。
今から八二六年前の元暦二年(一一八五)三月二十四日、源平最終決戦、壇ノ浦の戦いが行われたところです。
この写真は2008年の九月に訪れた時のものです。
ここを訪れるのは通過したのも含めると7.8回ぐらいになるのですが、
こうやって岸壁にしっかり足を踏み入れたのはこれが初めてでした。
正直思ったことは、こんなところで船戦なんかできたのだろうか、
ただの作り話じゃないんだろうかと、
疑いました。
一日にいったい何十隻、何百隻の貨物船が往来するんでしょうか。
潮の流れに逆らって進む船は、うなりを上げて一歩一歩と、
人の歩行に例えるなら、大股でぐいぐい歩いて行くのではなく、
つま先をほんの少しづつ前へ前へじわじわと行った感じで、
なかなか前へ進まないんです。
それとは逆に流れて行く方向に進んで行く船は、
まるで、スキー場のゲレンデをスキーヤーが滑って行くように、
すうーっと、あっという間に前へ進んで遠くに行ってしまうんです。
それを見ているだけでもものすごい光景でした。
今現在の船ですらこの有様です。
それが八百年前の帆掛け舟で、ふつうの舟より規模は大きいとはいえ、
これほどに流れが速いところで船戦ができたんでしょうか。
スクリューのついていない手漕ぎの船なんてあっという間にずっと遠くへ流されてしまうはずです。
こんな急流の海で、その時の光景はどんなだったんだろうかと、
ずっと考えながら岸壁を歩いて行きました。
よく、潮の流れが勝敗を決めたと言われますが、
ちょっと不自然な気もします。
やはり勝敗を決めたのは、寝返りもあったのではないでしょうか。
そして前方に小さく二つの小島が見えて来ました。
自分にはもうすでにこの海峡を眺めた時から目に入っていました。
満珠・干珠(まんじゅ・かんじゅ)の小島です。
この二つの小さな島を陣地として義経が攻めて来たのです。
敵に向かっていくような気持ちで、
その小島を睨みつけながら歩いて行きました。
“判官びいき”という言葉がありますが、
自分には関係ありません。
そして岸壁を東の方へしばらく歩いて行くと道路わきに、
“平家の一杯水”と書かれたこのような石碑がありました。
これは、ここの浜辺に真水の湧き出る泉があったということです。
深傷(ふかで)を負った平家の侍がこの泉にたどりつき、のどをうるおしたのですが、
一杯目は真水だったが二杯目からは塩水に変わっていた…
そんな言い伝えが残されているそうです。
そしてこの石碑のすぐ横に浜辺へ下りる階段があり、
下りてみるとこんな小さな祠が波にゆられて建っていました。
関門橋の下を通って東の方に少し行くと、“みもすそ川公園”があり、
そこにはりっぱな壇ノ浦古戦場跡の石碑があります。
写真はぼやけてしまってますので、海の動きがもうひとつわかりにくいですが、
この地に降り立ってみればわかります。
ここの空気感は、この地に降り立ってみなければ感じとることができないと思います。
“浪の下にも都のさぶらふぞ”
そう言ってなぐさめ、二位の尼(平時子)は幼帝安徳を抱いて海に入っていったということです…。
付近には、標高268メートルの火の山があり、
その山頂には火の山公園があります。
そこから見た関門海峡の眺めです。
写真では途切れて見えませんが、右前方には平家が拠点とした彦島があります。
そして関門橋の架かっているところ、向こう側は九州なのですが岬が張り出しています。
早鞆の瀬戸(はやとものせと)といって海峡の幅が狭く、とくにここが潮の流れが速いのです。
当時はこの関門橋も、向こうに建ち並ぶ電波塔もビルもありません。
今は大きく景観が変わってしまっています。
そんなこんなを思いながらその時を思いました。
そして、関門橋の下の辺りに赤い鳥居が幾重にも連なった小さな神社がありました。
何という神社だったかは忘れましたが。
“歴史に仮定はできない” と、よく言われます。
いつも理想通りに物事が動いて行くわけではありません。
予期せぬことが現実に起こったりするもので、それは人の人生でも同じ。
歴史に仮定はできないとは、そんな意味も含まれているのかもしれません。
自分なりにそう考えながら、今も。
その意味が本当にわかるまでどのくらいの時間を要するのか、霧の中です。
壇ノ浦の戦いについて、
平家物語の「内侍所都入」の項には、こう記述されています。
“海上には赤旗、赤印、投げすてかなぐりすてたりければ、
竜田河(たつたがわ)の紅葉葉(もみぢは)を嵐の吹きちらしたるがごとし。
みぎはに寄する白浪も薄紅(うすくれない)にぞなりにける。”
真っ赤に染まった夕日を見て何を思いますか。
本来、日本人の心には楽しい物語よりも、悲しい物語のほうが強く受け入れられていたはずです。
それは日本人の心情なのでしょう。
でもそれはずっと以前のことになってしまっているような感があります。
ここ十数年の時代の風潮はすっかり様変わりしてしまっているようです。
そう思えるのは自分だけでしょうか。
平家の旗色は赤。
それを夕日に仮定してみました。
こんな時代の風潮ですが、赤い炎は消えることなくずっと燃え続けていて欲しいものです。
紅花が日本に渡来したのが五世紀とされ、中国では紅藍と呼び習わされていました。
紅は赤を意味し、藍は青色であるが、もっとも親しみやすく代表的な染料であったから、
「藍」は染料の総称ともなっていました。
したがって紅藍は紅花の染料のことで、当時の日本人は、
揚子江の南にあった呉の国から渡来した染料ということで呉藍(くれあい)と発音し、
それが“くれない”へと転訛したのでした。