平家の落人村13、兵庫県伊賀谷村


豊岡の伊賀谷に入り込んだ平家の武士団は、
香住町・畑に居ついたと伝える伊賀氏の郎党が、さらに奥地を求めてやって来たもので、
主と仰ぐ伊賀氏の名に因んで、この谷を伊賀谷と名付けたものといい、その郎党の姓は
橋本・滝本・武田・中西・平田だともいいます。



彼らが住みついた場所は、伊賀谷の中では最奥部の平原状の地帯で、四周とは隔絶した所であったといいます。
平家の落武者の系をひくとの所伝をもっている人の中には、この平原部に落下する滝の近くに居所を求
めたところから、姓を滝本と変えたというものもあるようです。



さて、伊賀谷を出て江野(ごうの)で大浜川と合流するまでの伊賀谷川は古来、菜川といっていました。
上流から菜類を洗ったと見られる菜の屑が流下して出るのを、江野あたりの人が気づき、
この奥に住む人があるらしいと気づいて菜川と名付けたといいます。



潜伏していた人びとは山を越えて土生(とのしょう「旧香住町」)に入り、
そこの阿波民部大夫を頼って情勢をうかがい、ほとぼりがさめてから、
再び伊賀谷に戻って来たともいわれます。
現在の伊賀谷は後になって、この高地に住んだ落人たちが下りてきて開いたものといいます。