卒都婆流

卒塔婆”(そとば)とは、
サンスクリットの“stupa”(ストゥーパ)の音訳で、塔婆とも略し、
もとは仏舎利を安置するための建築物を意味しました。
現在の日本では、追善供養のために文字を書き、墓の脇に立てる塔の形をした木片のことを
卒塔婆と呼ぶことが多いようです。
これを特に板塔婆(いたとうば)と呼ぶこともあります。
日本における木製の卒塔婆は、平安時代末期から鎌倉時代初期の頃には使用されていたものとみられます。
また、率塔婆、卒都婆とも書きます。


一一七七年、平家打倒の密議“鹿ケ谷の陰謀”に加担した俊寛僧都、平康頼、藤原成経の三人は、
鬼界ヶ島に流されてしまいました。
鬼界ヶ島の現地比定には諸説あり、現在でも喜界島説、硫黄島説、南島の総称説などがあるようです。
そして康頼は卒都婆に願いを込めて、海に放ったのでした…。



では、
物語に入って行きます。



平家物語、巻第二 “卒都婆流”(そとばながし)



『 康頼入道、古郷の恋しきままに、せめてのはかりことに、

千本の卒都婆を作り、阿字(あじ)の梵字(ぼんじ)、年号月日、仮名実名、二首の歌をぞ書いたりける。


“さつまがたおきの小島に我ありとおやにはつげよやへのしほかぜ”

“思ひやれしばしと思ふ旅だにもなほふるさとはこひしきものを”


是を浦にもって出でて、「南無帰命頂礼(なむきみょうちょうらい)、梵天帝尺(ぼんでんたいしゃく)、
四大天王、堅牢地神(けんろうぢしん)、王城の鎮守諸大明神、
殊には熊野権現厳島大明神、せめては一本なりとも、都へ伝へてたべ」とて、
興津白浪の、寄せてはかへるたびごとに、卒都婆を海にぞ浮かべける。
卒都婆を作り出すに随って、海に入れければ、日数つもれば、卒都婆のかずもつもり、
その思ふ心や便の風ともなりたりけむ、又神明仏陀もやおくらせ給ひけむ、
千本の卒都婆のなかに、一本、安芸国厳島の大明神の御まへの渚に、うちあげたり…。』


☆現代語訳
《康頼入道は故郷が恋しいままに、せめてもの方策として千本の卒都婆を作り、阿字の梵字と年号、
月日、通称、実名を書き、二首の歌を書いた。


“薩摩潟の沖の小島に自分が居ると、故郷の親には是非知らせてくれ、八潮の潮風よ”


“ほんのしばらくと思う旅でさえやはり故郷は恋しいものなのに、ましていつ帰れるかもわからない、
今の自分の心中を思いやってくれ”


これを海岸に持って出て
「南無帰明頂礼、梵天帝釈、四大天王、堅牢地神
王城の鎮守諸大明神、特に熊野権現厳島大明神、せめてこの卒都婆の一本でも、
都へ伝えてください」
といって、沖の白波の寄せては返るそのたびごとに、卒都婆を海に流した。卒都婆を作り出すとすぐ
それを海に入れたので、日数が重なると、卒都婆の数も多くなり、その思う心が卒都婆を内地に
吹き送る幸便の風ともなったのだろうか、あるいはまた神仏もお送りくださったのだろうか、千本流した
卒都婆のなかで、一本だけが安芸国厳島の大明神の社前の波打ちぎわに、打ち上げられた…。》




千本のなかの一本が、鹿児島の南の太平洋の中(東シナ海との中間)に浮かぶ鬼界ヶ島から、
内海の安芸の厳島に流れ着くなんて、
まずあるはずもありません。
康頼がほんとに卒塔婆を作ったかどうかもわかりませんし…。
これは劇的で、美しすぎる虚構だと、
素人が見てもわかるんですが、
ただ虚構だからと流してしまうんではなくて、
その時代の思い、平家物語を書いた作者の思いを受け入れてみると、
世界観がかなり違ってくるんじゃないかなと、
素人ながら生意気にもそう思うんです。
そして情景が浮かんでくるんです。
この“卒都婆流”の物語、好きです。
あえて、ストーリーと書かずに“物語”と書きました、日本人ですから。



そして、京都市内を南北に走る千本通りの名のおこりは、
蓮台野への道に千本もの卒塔婆を立てたことによるといわれているようです。