最近は魚釣りなんてまったくしてないんですが、
スズキの80センチオーバーのものを一度釣り上げてみたくて、
町を流れる岸田川をはじめ、隣町の矢田川、豊岡の円山川
県外の鳥取市を流れる千代川などに、
一時期ずっとルアー竿を持ってあちこちに赴いていたものです。
もう10年以上前になりますかね…。
でも結局一匹も釣りあげることは出来ませんでした。
くやしいですね…。
スズキという魚は最大で1メートルを越えるものもいるようです。


生息域は、北海道南部から九州までの日本列島沿岸と、朝鮮半島東・南部、沿海州に分布しています。
冬は湾口部や河口など外洋水の影響を受ける水域で産卵や越冬を行い、
春から秋には内湾や河川内で暮らすという比較的規則的な回遊を行います。
昼間はあまり動きませんが夜になると動き出します。
食性は肉食性で、小魚や甲殻類などを大きな口で捕食します。


釣りをする時、ハリにかかると大きく口を開け、鰓蓋(えらぶた)を広げて首を振り、
ときにジャンプします。この時鰓蓋骨後縁が尖り、のこぎり状になっているので
しばしば釣り糸が切れます。これを『鰓洗い(えらあらい)』といいます。
釣り人に人気でシーバスとも呼ばれます。


あれは小学校6年の時だったと思います。
ちょうどこの岸田川河口の浜で夕がた友達と遊んでいたのですが、
友達の一人が “スズキが上がったぞー” って、少し離れたところから叫んだんです。



急いでここを駆けよってみると、



ここに釣りをしていたおじさんがいて、
そのかたわらの砂浜の上に大きなスズキが大きな口をばくばくさせて横たわっていたんです。



ちょうどここ、木が打ち上げられているところです。



小学生当時でしたからこんな大きな魚は沖の方で漁師が捕って来るようなもので、
まずこんな砂浜の付近にはいないだろうという頭があったので、ほんとにあの時はタマゲました。
数日後にそのスズキは、近くの釣具店に魚拓を撮ってありました。
たしか、83センチと書いてあったと思います。


小学校の5年から6年生にかけて、梅雨時分になると毎日のようにこの突堤に立って投げ釣りをしていました。
釣れるものはいつも “はぜ” “きす” “せいご” など。
“せいご”というのはスズキの幼名です。成長するにつれ、
“せいご” “ふっこ” “スズキ” と名前が変わる出世魚です。


それからまた別のある日、秋で、波がだわだわ荒れていました。
この突堤でたくさんの人が投げ釣りをしていたのですが、
その時も誰かがスズキを掛けて、水面をジャンプしたりして暴れまわる姿を見ました。
ちょうどこの方角(向こう岸は山の裾になります)です。
その時もすさまじかったです。



これ以下三枚の写真は前に申しました円山川の河口付近のものです。
この辺にもよくスズキ狙いに来ました。
何回も何回もルアーを投げました。




そして、平家物語の『鱸』の項にはこのように記述されています。



“平家かやうに繁昌(はんじょう)せられけるも、熊野権現の御利生(ごりしょう)とぞきこえし。
其故は、古清盛公、いまだ安芸守たりし時、伊勢の海より船にて熊野へ参られけるに、
大きなる鱸(すずき)の船に躍り入りたりけるを、先達申しけるは、
「是は権現の御利生なり。いそぎ参るべし」と申しければ、
清盛宣(のたま)ひけるは、「昔周の武王の船にこそ、白魚は躍り入りたりけるなれ。是吉事なり」
とて、さばかり十戒をたもち、精進潔斎の道なれども、調味して、家子侍共に食はせられけり。
其故にや、吉事のみうちつづいて、太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途も、竜の雲に昇るよりは、
猶すみやかなり。九代の千蹤(せんじょう)をこえ給ふこそ目出たけれ。”


すでに平安時代においてスズキは重宝されていたのでしょうか…。



余談になるんですが、スズキはシーバスと呼ばれるように、
ブラックバスに似てますよね。口の大きいところ、豪快なところ、姿かたち。
スズキの場合は釣り上げたら、多分おおよそ食べられると思うんですが、
淡水魚のブラックバスはゲームフィッシングといって、釣って大きさを確認したらそのまま水の中に
“ポイ”ですよね。
釣っては放し、釣っては放し…、これでは魚の口が傷だらけになって迷惑ではないですか。
そんなことして何が面白いんだろうって思うんです。
そういう人間の行為が許せないんです。
地球は、人間中心にまわっているようですね…。
釣ったのならせめて食べてあげなければ。



話しが少しそれましたが、
80センチオーバーのスズキを釣り上げるというのは僕のちょっとした夢です。
ほんとに釣り上げたら多分、腰を抜かすと思います。