乱、前夜に生まれて

ゆく河の流れは絶えずして…






平家物語が、琵琶法師によって語られて来たように、
この時代を思い浮かべる時、自分のなかではまず琵琶、
琵琶の音色が響いて来ます。


質素で、重く響く琵琶の音色が。







この激動の世に生き、後年、ひとり隠遁生活を送ります。


ゆく河の流れは絶えずして…



そして、一一七七年の京都大火をこう語ります。


“去安元三年卯月廿八日かとよ、風烈しく吹きて、静かならざりし夜、
戌の時ばかり、都の東南より火出で来て、西北に至る。はてには、朱雀門
大極殿、大学寮、民部省などまで移りて、一夜のうちに塵灰となりにき。
火元は樋口富の小路とかや。舞人を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。


吹きまよふ風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく末広になりぬ。
遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら焔(ほのお)を、地に吹きつけたり…。”




安元の大火の火元と思われる樋口富小路は、五条大橋からそう遠くない所にありました。



また、一一八〇年に京都で吹いた暴風をこう語ります。


“また、治承四年卯月のころ、中御門京極(なかみかどきょうごく)のほどより、大きなる辻風おこりて、
六条わたりまで吹ける事侍りき。三四町を吹きまくるあひだに、こもれる家ども、
大きなるも、小さきも、ひとつとして破れざるはなし。
さながら平に倒れたるもあり、桁柱ばかり残れるもあり、門を吹き放ちて四五町がほかに置き、
また垣を吹きはらひて隣とひとつになせり。いはむや、家のうちの資材、数を尽して空にあり。
檜皮、葺板のたぐひ、冬の木の葉の風に乱るるがごとし。”


ここは丸太町橋
中御門大路はこれより少し右にずれて通っていたようです。
中御門京極は、中御門大路と東京極大路の交わる所ですので、辻風の起こった所はこの前方辺りと思われます。


ゆく河の流れは絶えずして…



俗名、かものながあきら。
ゆかりの社は京都、下鴨神社の敷地内にありました。



河合神社です。



ひっそりと、静かな社でした。




これは復元された方丈です。



鴨長明
賀茂御祖神社の神事を統率する鴨長継の次男として京都で生まれました。
和歌を歌林苑の主宰者俊恵に、琵琶を中原有安に学びました。
望んでいた河合社の禰宜(ねぎ)の地位につくことが叶わず、神職としての出世の道を閉ざされ、
後に出家して蓮胤(れんいん)を名乗りましたが、一般には俗名を音読みした鴨長明(かものちょうめい)で知られています。
晩年には日野に移住し、四畳半ほどの方丈の庵を造り日野山の奥に隠棲したといいます。



 “ ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
久しくとどまりたるためしなし。
 世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。たましきの都のうちに棟を並べ、
甍を争へる高き賤しき人の住ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、
これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は去年焼けて、今年作れり。
或は大家ほろびて小家となる。
 住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへみし人は、
二三十人が中にわずかにひとりふたりなり。朝に死に夕べに生るるならひ、
ただ水の泡にぞ似たりける… ”



☆現代語訳
《 川は涸れることなく、いつも流れている。そのくせ、水はもとの水ではない。
よどんだ所に浮かぶ水の泡も、あちらで消えたかと思うと、こちらにできていたりして、
けっしていつまでもそのままではいない。
 世間の人を見、その住居を見ても、やはりこの調子だ。壮麗な京の町に競い建っている貴賤(きせん)
の住居は、永久になくならないもののようだけれども、ほんとうにそうかと一軒一軒あたってみると、
昔からある家というのは稀だ。
去年焼けて今年建てたのもあれば、大きな家が没落して小さくなったのもある。
 住んでいる人にしても、同じこと。所は同じ京であり、人は相変わらず大勢だが、
昔会ったことがある人は、二、三十人のうち、わずかに一人か二人になっている。
朝死ぬ人があるかと思えば、夕方生まれる子がある。まさによどみに浮かぶうたかたにそっくりだ。》


鴨長明、『方丈記』より。




また、時を同じくしてこの世に生き



文治元年三月、壇ノ浦の戦いで生け捕りにされ、平家の公達とともに、都へと連行されて行きました。
瀬戸内海沿岸を、この辺りも通って行ったのでしょうか、
写真は2008年に訪れた時のもので、広島県安芸津町辺りの海岸です。
前方左に見えるのは大芝島です。



虚構まじりの物語でも、
真面目に向き合ってみたいのです。



義経が、平家の生け捕りどもを連行して明石付近にさしかかった頃のことを、
平家物語はこう記述しています。


“同十四日、九郎大夫判官義経平氏男女のいけどりども、相具してのぼりけるが、
播磨国石浦にぞつきにける。名をえたる浦なれば、ふけゆくままに月さえのぼり、
秋の空にもおとらず。女房達さしつどひて、「一年(ひととせ)これをとほりしには、かかるべしとは思はざり
き」なンどいひて、しのびねに泣きあはれけり。”


☆現代語訳
《同月十四日、九郎大夫判官義経は、平氏の男女の生捕りどもを召し連れて上ったが、
播磨の国明石の浦に着いた。月見の名所として有名な浦なので、夜がふけてゆくにつれて、
月が澄んで空高く上り、今は夏だが秋の空にも劣らない。
女房達は寄り集まって、「先年ここを通った時には、こんなことになろうとは思いもしなかった」
などといって、忍び泣きにみんな泣いておられた。》


写真は明石の大蔵海岸公園から対岸の淡路島を眺めたところです。
2010年の10月に訪れた時のものです。



京都、長楽寺。
当寺はもともと円山公園の大部分を含む広大な寺域を持った有名寺でありましたが、
大谷廟建設の際幕命により境地内を割かれ、明治初年境内の大半が円山公園編入され今に至っています。



建礼門院の目に、この山の線がどう映ったんでしょうか。
じっと強く見つめてみました。




平清盛の娘、建礼門院徳子が壇ノ浦の戦いの後、京都に連れ戻され、
最初に身を潜めたのが東山の麓にあるこの長楽寺といわれています。
そして五月一日に出家しています。



後に大原寂光院に移り住み、余生を送ったのは周知のとおりです。




中学の時、一途に、建礼門院徳子に対して深い悲哀の念を抱きました。
五年前に一度参拝しているので、この日は参拝しませんでした。


建礼門院鴨長明はさらされた境遇は違いますが、
時を同じくして世を送りました。
ともに保元の乱前夜に生まれています。


鴨長明、一一五五年〜一二一六年閏六月没

建礼門院、一一五五年〜一二一三年十二月十三日没

(生没年は諸説あるようです)