観音山相応峰寺

行基がどんなお坊さんだったのかほとんど知りませんでした。


“ 弟子の僧・景静ら攀号するも及ばず。瞻仰するも見るなし。
        ただ砕け残れる舎利あるのみ。しかれども尽く軽き灰なり。 ”


これは『瓶記』による行基の火葬の様です。
七四九年二月八日、荼毘にふされました。骨までもすべて灰になり、風に舞ったといいます。


僕は、大伴家持が赴任先の因幡国庁で万葉集最後の歌を歌った年、
七五九年を一つの目安としますので、
その時からすると、行基が亡くなったのは十年前のことです。



行基は今で言うと、新興宗教の教祖のようなものだったのでしょうか。
ともあれ、民衆のヒーローだったわけです。
その活動は、僧尼令違反として七一七年以降政府からたびたび弾圧されたが、
七三一年以降禁圧は緩和され、七四三年の盧舎那仏造立には弟子や衆庶を率いて協力し、
七四五年、わが国で最初に大僧正という最高の僧位が与えられた。


この、兵庫県新温泉町にある相応峰寺(そうおうぶじ)の背後にある観音山(かんのんさん)は、
四月には祭りがあり、子供の頃、何度か登ったこともありました。
寺伝によれば、相応峰寺は七三七年(天平九)に行基が創立し、当初は“九品山極楽寺(くほんざんごくらくじ)”と称されていたようです。




案内板の通り、八五九年(貞観元)には清和天皇により“相応峰寺”の号を賜り、
それ以来寺号を改めて、観世音山相応峰寺と称するようになったと言われています。

また戦国期、一五八〇年(天正八)には秀吉の但馬征伐で全山焼失となるなど、
いくたの変遷を経て今日に至っています。




聖武天皇東大寺の大仏造立という大事業を、この行基と、
東大寺初代別当の良弁なくしては成し遂げることができなかったのかもしれませんね。

その行基が亡くなったのは平城京右京にある菅原寺
その地は奈良の垂仁天皇陵の北、国道三〇八号線沿いにあり、大学時代何度も通った
大衆食堂のあった地と思われ、日常の行動範囲内だったのかもしれません。



紫陽花の季節ももうそろそろ終わりでしょうね。



ここ二、三日は梅雨がもどって来たかのような天気でしたが、今日、
あっさり梅雨明け宣言されてしまいました。

紫陽花の頃を過ぎて、近く夏を彩る花は…。