雪の国より

自分の生まれた街の風景、匂いというのはどこへ行こうともずっと心の片隅にあるものだと思います。
どこへ行こうと自分の出発点であり、自分を偽ることのできない土地空間だと思います。
雪の降る国を、生まれ故郷に持っている人は雪をどう受けとめているのか。
白く美しい風景というだけでなく雪国で生活することの過酷さも知っているはず。
半ば雪をうとましく思っている人のほうが多いにちがいありません。
余談ですが、自分は冬の始めに生まれました。
その頃に雪がちらついていたのかどうかはわかりません。
この世に現れた時の空気を本能的に知っているのかもしれません。
それと結びつくのかどうかはわかりませんが、
自分は冬という季節が好きです。
冬、生活するのは過酷です。それでも冬が好きなのです。
雪は、人の世の雑踏や、喧噪、悩みも、かき消してくれる…  
そういう力を持っていると自分には思えるのです。


子供の頃、三月という季節があまり好きではありませんでした。
四月となれば春という季節がより明確に、より顕著になるのですが、
春でもない、冬でもない、中途半端な三月という季節が好きではありませんでした。
白い風景と、雪が名残惜しくて。


大伴家持は雪国出身者ではありません。
たまに雪がちらつくことはあっても積もることのない大和国の生まれです。
家持の目に、白い雪がどう映ったのでしょうか。
因幡での三年半、家持が何をしていたのか、確かな記録は何もないようです。
おそらく、万葉集の編纂に当っていたのではないかと思われます。


“倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし”


大伴家持は奈良の佐保に住んでいたといわれます。
今でも佐保の地名はあります…。

自分にとって、帰り着くところは白い風景。



悠紀の国より。




悠紀(ゆき)の国は、
大嘗祭にあたり、悠紀殿での夕御饌(ゆうみけ)として供進するための新穀を
奉るように定められた国のことです。


因幡国は、
持統五年(六九一)と天平宝字元年(七四九)の二回、指定されました。
指定された国にとっては大変栄誉なことだったのす。

第一回を迎えて

“又ある人の申しけるは、清盛は忠盛の子にはあらず、
まことには白河院の皇子なり。その故は、去る永久の比ほひ、
祇園女御と聞こえしさいはひ人おはしける。件の女房の住まひ所は、
東山の麓、祇園のほとりにてぞありける。白河院常は御幸なりけり…。”


平家物語の、『祇園女御』の記述ですね。



大河ドラマ平清盛』、
第一回目を見て…



白河法皇落胤説ですが、
あんな形で清盛が下賜されるのは意外でした。
どこにそういうシナリオがあったのか…。
もちろん白河法皇の前で矢を射られるなんてそれはないでしょう。
また落胤説は源平盛衰記や近江の胡宮神社文書に見える仏舎利相承系図にも
記されているようです。



それからドラマの映像と、自分自身が思い描ている平安時代末、、
源平時代の情景とはどうしてもちょっと相違してて、
それを融合することは出来ませんが、
じっくり比べながら見て行きたいと思います。


今後どういう展開になって行くのか、まだ序盤です。
僕は厳粛に描いて行ってほしいです。


ひとつの時代、ひとつのストーリーっていうのは、
何度も何度もくりかえし見るより、
最初で最後のあざやかな感動を大切に心にしまっておいたほうがいいのかもし
れませんね…。

玄忠寺


玄忠寺は鳥取県鳥取市新品治町にある浄土宗の仏教寺院です。



正式名は、大唐大巖深心山九品院玄忠寺。
“鍵屋の辻の決闘”で広く知られる剣豪荒木又右衛門の菩提寺で、
境内にはその所縁の品や資料を展示する荒木又右衛門遺品館が設けられています。

この門をくぐったすぐ左に、又右衛門の立派なお墓がありました。



子供のころからとても慣れ親しんでいる隣町の鳥取なのですが、
この一画には足を踏み入れていませんでした。
ひっそりと、とても静かな場所で、
言ってみれば京都の六波羅のような感じでした。

一一七七


大極殿(だいごくでん)は、古代の朝廷の正殿。宮城(大内裏)の朝堂院の中央にあり、
殿内には高御座(たかみくら)が据えられ、即位の大礼や国家的儀式が行われました。



ここは、藤原宮跡です。
藤原宮の構造の最も顕著な特徴は、朝堂院の正殿としての大極殿が成立したことであります。
内裏正殿がもっていた国家的な儀式空間としての機能が分離独立して、独自の空間を構成する
ようになったのです。



大極殿の名は万物の根源、天空の中心を意味する太極(たいきょく)に由来し、
帝王が世界を支配する中心に位置するのが大極殿です。
二三五年に三国(中国)の魏の明帝が洛陽南宮に建てたのが始まりといいます。



藤原宮大極殿跡です。



この大極殿
日本最初の大極殿が置かれた宮殿については、飛鳥浄御原宮説と藤原宮説があるようです。



日本書紀は、六八一年(天武十)二月、天武は皇后(後の持統天皇)とともに“大極殿”に出て
親王諸王諸臣を召して、律令を定め法式を改めんと宣言したと述べています。
この、“大極殿”という記述が注目されるわけです。
天武天皇の宮は飛鳥浄御原宮です。
飛鳥浄御原宮の所在地は、飛鳥板蓋宮(皇極・斉明天皇の宮)推定地の上層遺構を充てるのが近年の通説で、
その東南郭で発見された大規模な正殿(エビノコ大殿)が、史料にみえる飛鳥浄御原宮の「大極殿」である可能性が高いようです。



伝飛鳥板蓋宮跡です。















ところで、大極殿がどのように利用されていたか、
奈良時代のものを史料からみると、
まず第一が天皇の即位の場合です。改めていうまでもなく、天皇の代替わりに、
新たに天皇がその地位に就いたことを百官に示す儀式であり、天皇制国家という形態をとる
日本の古代国家にとって最も重要な意味をもつものです。



第二に元日朝賀の儀があげられます。
これは毎年正月元日に天皇が百官の賀を受ける儀式です。天候の不順とか皇族の病気、
あるいは天皇が喪に服している時といったように、何らかの事情で朝賀をとりやめたりする例がしばしばみられるものの、
史料を通観してみるとほぼ奈良時代には大極殿において朝賀を受けるのを通例としていたと思われます。



次に即位・元日朝賀以外に大極殿が使われた事例として、改元・授位・告朔といったことが考えられます。
改元天皇の代替わりや祥瑞の出現等々の理由によって行われたが、即位に伴う改元を除くと、
天皇大極殿に出御したことを史料に明記してあるのは、奈良時代では養老と天平の二度の改元に限られます。
また授位についてみてみると、奈良時代にはきわめて多くの例があるにもかかわらず、天皇出御を
示す語句はまれにしかあらわれないようです。
次に告朔とは毎月一日に天皇大極殿に出御して諸司の進奏した公文をみる、という儀式です。
その起源は天武朝以前にまで遡るもので、以後平安時代にいたるまで史料に散見します。
復元された平城宮跡大極殿、荘厳な感じがしますね。



その大極殿
歴代王朝の象徴的存在となっていましたが、
一一七七年(治承元)、「太郎焼亡」と称される京都の大火に遭います。



四月二十八日の亥の時、樋口富小路に起きた火事は折からの南東の風にあおられ、
京中をなめつくしました。
東は富小路、南は樋口、西は朱雀、北は二条までの一八〇町の広範囲に及ぶものであり、
炎上の間には辻風が何度も吹いて、大内では大極殿以下の所々、公卿の家は関白以下
一三人の家が焼失したようです。



また、九条兼実は、「火災盗賊、大衆兵乱、上下騒動、緇素奔走、誠に乱世の至りなり。
人力の及ぶところに非ず。天変しきりに呈すと雖も、法令あえて改めず。殃を致し禍を招く。
其れ然らざらんや」と記しています。



この火災以降、大極殿は再興されませんでした。
その間およそ五百年、大極殿の終焉です。



平安宮大極殿跡です。




そして、



“あくれば六月一日なり。いまだくらかりけるに、入道、検非違使の阿倍資成を召して、
「きっと院の御所へ参れ。信業をまねいて、申さんずるようはよな、『近習の人々、此一門をほろぼして、
天下を乱らんとするくはたてあり。一々に召しとって、尋ね沙汰仕るべし。それをば、君もしろしめさるまじう候』と、申せ」とこそ宣ひけれ。
資成いそぎ御所へはせ参り、大膳大夫信業よびいだいて、此由申すに色をうしなふ。
御前へ参って此由奏聞しければ、法皇、「あは、これらが内々はかりし事のもれにけるよ」とおぼしめすにあさまし。”
☆現代語訳
《夜が明けると六月一日である。まだ暗かったのに、入道(平清盛)は検非違使阿倍資成(あべのすけな
り)を呼んで「至急、院の御所へ参れ。そして信業を呼びだして、申すのにはだな、『側近の人々が
この平家一門を滅ぼして、天下を乱そうとする計画がある。
いちいち召し捕って、尋問・処罰をいたします。それを君(法皇)も干渉なさらないでください』と申せ」

と言われた。資成は急いで御所へ駆けて参り、大膳大夫信業を呼びだして、この事を申すと、顔色を変えた。
法皇の御前へ参ってこのことを申し上げたところ、法皇は、「ああこれらの者が内々計画した事が、
漏れてしまったのだな」と、お思いになって茫然とされた。》
平家物語より〜



この年、平家打倒の密議、鹿ケ谷の陰謀が起こります。



さらに、
謀議の首謀者のひとり、西光法師を西八条邸へ連れ出し、強く縛って中庭へ引きすえ、
“入道相国、大床にたって、「入道かたぶけうどするやつが、なれるすがたよ。しやつここへひき寄せよ」
とて、縁のきはにひき寄せさせ、物はきながら、しやっつらをむずむずとぞふまれける。”
☆現代語訳
《入道相国は大床に立って、「この入道を滅ぼそうとするやつの、なれ果てのみじめな姿だわい。
やつめをここへ引き寄せろ」といって、縁の際に引き寄せさせ、何かものを履いたままで、そいつの面を
むずむずとお踏みになった。》
と、こう語っています。迫力のある記述ですね。

全盛を誇った平家はこのころから徐々に雲行きがあやしくなって行くのでした。

法華寺

平安時代末期に生きた平清盛は、
古い書物を読むことが好きで、
天皇家外戚となって家格をゆるぎないものとする手腕を持つという、
それを範とした人物が、清盛の時代から遡ること四五〇年ほど。
それは藤原不比等だったと、ある本には書かれていたのですが、
どの本だったのかはっきり憶えてないのです。
今まで読んだ本をいろいろ読み返してみましたが、
その個所を発見することができません。


このことが史実なのか単なる俗説なのか自分にはわかりませんが、
少し興味深いのでそれを突きとめたいのです。
しかし今のところ信頼できる文書には出会っていません。



ここは平城宮跡の東隣にある法華寺です。
正式には法華滅罪之寺と称し、門跡氷室御所ともいいます。



聖武天皇の皇后光明子が父藤原不比等の邸宅を相続して皇后宮とし、
さらに寺院に転じて宮寺と称しました。
これが大和の国分尼寺として法華寺と呼ばれ、総国分尼寺の立場におかれました。



以前にも申しましたが、
平城遷都の理由のひとつに藤原不比等の野望があったこともあげられるようです。
天皇家外戚となり、孫の聖武天皇のために計画された都ともいわれます。
その証拠に、この藤原不比等の旧宅は平城宮に隣接しています。
さらに官人の住む京を見下ろす位置にあるのもその権威を示すものと思われます。



清滝会


東大寺要録』によると、良弁(ろうべん)は羂索院において聖武天皇、皇太子・阿倍皇女、光明皇后のた
めに、
願い出て諸寺の聴衆を集め、はじめて法華会をおこなったとあるようです。
やがてこれは桜会とよばれ、百年の後まで行われ続けたようです。


聖武天皇は、天璽国押開豊桜彦尊(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのみこと)ともよばれます。
植物の名前が入ったおくり名は、他のどの天皇にもないそうです。
桜会をこよなく喜んだ聖武天皇にちなむものなのでしょうか。



桜会”は、奈良時代以降、毎年二〜三月の桜花爛漫の時期に大寺社で行われた法会です。
仏心の恩徳に感謝する法会のあとに、観桜の宴を催しました。
 

京都市伏見区醍醐寺をはじめ右京区仁和寺などでも行われました。
とくに醍醐寺のものが有名で、同寺清滝宮前で催されたので清滝会ともよばれ、
のちに桜会といえばそれをさすようになりました。


清滝会は一一一八年(元永元)三月十三日に始められ、現在も四月に行われます。


一一一八年、この年、白河法皇落胤ともいわれる平清盛は生まれます(推定)。

平家の落人村13、兵庫県伊賀谷村


豊岡の伊賀谷に入り込んだ平家の武士団は、
香住町・畑に居ついたと伝える伊賀氏の郎党が、さらに奥地を求めてやって来たもので、
主と仰ぐ伊賀氏の名に因んで、この谷を伊賀谷と名付けたものといい、その郎党の姓は
橋本・滝本・武田・中西・平田だともいいます。



彼らが住みついた場所は、伊賀谷の中では最奥部の平原状の地帯で、四周とは隔絶した所であったといいます。
平家の落武者の系をひくとの所伝をもっている人の中には、この平原部に落下する滝の近くに居所を求
めたところから、姓を滝本と変えたというものもあるようです。



さて、伊賀谷を出て江野(ごうの)で大浜川と合流するまでの伊賀谷川は古来、菜川といっていました。
上流から菜類を洗ったと見られる菜の屑が流下して出るのを、江野あたりの人が気づき、
この奥に住む人があるらしいと気づいて菜川と名付けたといいます。



潜伏していた人びとは山を越えて土生(とのしょう「旧香住町」)に入り、
そこの阿波民部大夫を頼って情勢をうかがい、ほとぼりがさめてから、
再び伊賀谷に戻って来たともいわれます。
現在の伊賀谷は後になって、この高地に住んだ落人たちが下りてきて開いたものといいます。