最近は魚釣りなんてまったくしてないんですが、
スズキの80センチオーバーのものを一度釣り上げてみたくて、
町を流れる岸田川をはじめ、隣町の矢田川、豊岡の円山川
県外の鳥取市を流れる千代川などに、
一時期ずっとルアー竿を持ってあちこちに赴いていたものです。
もう10年以上前になりますかね…。
でも結局一匹も釣りあげることは出来ませんでした。
くやしいですね…。
スズキという魚は最大で1メートルを越えるものもいるようです。


生息域は、北海道南部から九州までの日本列島沿岸と、朝鮮半島東・南部、沿海州に分布しています。
冬は湾口部や河口など外洋水の影響を受ける水域で産卵や越冬を行い、
春から秋には内湾や河川内で暮らすという比較的規則的な回遊を行います。
昼間はあまり動きませんが夜になると動き出します。
食性は肉食性で、小魚や甲殻類などを大きな口で捕食します。


釣りをする時、ハリにかかると大きく口を開け、鰓蓋(えらぶた)を広げて首を振り、
ときにジャンプします。この時鰓蓋骨後縁が尖り、のこぎり状になっているので
しばしば釣り糸が切れます。これを『鰓洗い(えらあらい)』といいます。
釣り人に人気でシーバスとも呼ばれます。


あれは小学校6年の時だったと思います。
ちょうどこの岸田川河口の浜で夕がた友達と遊んでいたのですが、
友達の一人が “スズキが上がったぞー” って、少し離れたところから叫んだんです。



急いでここを駆けよってみると、



ここに釣りをしていたおじさんがいて、
そのかたわらの砂浜の上に大きなスズキが大きな口をばくばくさせて横たわっていたんです。



ちょうどここ、木が打ち上げられているところです。



小学生当時でしたからこんな大きな魚は沖の方で漁師が捕って来るようなもので、
まずこんな砂浜の付近にはいないだろうという頭があったので、ほんとにあの時はタマゲました。
数日後にそのスズキは、近くの釣具店に魚拓を撮ってありました。
たしか、83センチと書いてあったと思います。


小学校の5年から6年生にかけて、梅雨時分になると毎日のようにこの突堤に立って投げ釣りをしていました。
釣れるものはいつも “はぜ” “きす” “せいご” など。
“せいご”というのはスズキの幼名です。成長するにつれ、
“せいご” “ふっこ” “スズキ” と名前が変わる出世魚です。


それからまた別のある日、秋で、波がだわだわ荒れていました。
この突堤でたくさんの人が投げ釣りをしていたのですが、
その時も誰かがスズキを掛けて、水面をジャンプしたりして暴れまわる姿を見ました。
ちょうどこの方角(向こう岸は山の裾になります)です。
その時もすさまじかったです。



これ以下三枚の写真は前に申しました円山川の河口付近のものです。
この辺にもよくスズキ狙いに来ました。
何回も何回もルアーを投げました。




そして、平家物語の『鱸』の項にはこのように記述されています。



“平家かやうに繁昌(はんじょう)せられけるも、熊野権現の御利生(ごりしょう)とぞきこえし。
其故は、古清盛公、いまだ安芸守たりし時、伊勢の海より船にて熊野へ参られけるに、
大きなる鱸(すずき)の船に躍り入りたりけるを、先達申しけるは、
「是は権現の御利生なり。いそぎ参るべし」と申しければ、
清盛宣(のたま)ひけるは、「昔周の武王の船にこそ、白魚は躍り入りたりけるなれ。是吉事なり」
とて、さばかり十戒をたもち、精進潔斎の道なれども、調味して、家子侍共に食はせられけり。
其故にや、吉事のみうちつづいて、太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途も、竜の雲に昇るよりは、
猶すみやかなり。九代の千蹤(せんじょう)をこえ給ふこそ目出たけれ。”


すでに平安時代においてスズキは重宝されていたのでしょうか…。



余談になるんですが、スズキはシーバスと呼ばれるように、
ブラックバスに似てますよね。口の大きいところ、豪快なところ、姿かたち。
スズキの場合は釣り上げたら、多分おおよそ食べられると思うんですが、
淡水魚のブラックバスはゲームフィッシングといって、釣って大きさを確認したらそのまま水の中に
“ポイ”ですよね。
釣っては放し、釣っては放し…、これでは魚の口が傷だらけになって迷惑ではないですか。
そんなことして何が面白いんだろうって思うんです。
そういう人間の行為が許せないんです。
地球は、人間中心にまわっているようですね…。
釣ったのならせめて食べてあげなければ。



話しが少しそれましたが、
80センチオーバーのスズキを釣り上げるというのは僕のちょっとした夢です。
ほんとに釣り上げたら多分、腰を抜かすと思います。

祇園闘乱事件

僕はたまに京都に赴いたりするんですが、
ここを通り過ぎる時、
いつも一一四七年に起こったある事件を想像してしまいます。


その時のざわめき、雄叫びが聞こえてくるようです。


これは僕の考え方なんですが、
八百数十年前じゃないんです、
きのうのことなんです。



京都、八坂神社。

時は一一四七年(久安三)六月十五日。
祇園臨時祭の当日に事件は起こりました。



この夜、平清盛は年来の宿願を果たそうとして祇園社に赴き田楽を奉納しようとしました。
その時護衛役として武装した郎等多数をさしそえました。
祇園社の神人などは場所柄にそぐわないとして武装を解くように要求しましたが、
それがきっかけとなって口論、闘争が起こり、互いに負傷者が出、争乱は深夜まで続いたようです。
また、清盛の郎等の放った矢が社僧や神人、宝殿などにも当りました。



事態を重くみた祇園の本寺延暦寺は、比叡山登山中の鳥羽院の御所への帰還を待って、
同月二十六日所司を参院させ、祇園闘乱のことを訴えました。
状況の悪化を恐れた忠盛は、先手を打って下手人(げしゅにん)の郎等七人を院庁にひきわたし、
鳥羽法皇はこれを検非違使庁に引き渡しましたが、その程度で事態は収まらず、
翌々日の二十八日、比叡山の衆徒や日吉、祇園両社の神人らは忠盛、清盛父子の流罪を求めて
ついに強訴に及びました。



この事件での清盛の罪は、二十四日の夜法皇が裁決を下し、『贖銅三十斤』と定まりました。
贖銅(しょくどう)とは、律に規定された換刑で、刑罰の重さに相当する額の銅を提供することによって
正刑に代える制度です。



事件当日は祇園社の御霊会の翌日であり、摂関家など広く諸家から社に祈願がなされる日であったようです。



動乱の程度はどれほどのものであったかは今さらつかむことはできませんが、
いつもここを通る時、ざわめきが聞こえてくるようです。


京めぐり

歴史学って何なのか、
ずっと最近このことを考えています。
でも、答えが出ません。


平安時代ってどうとらえたらいいんでしょう。
四百年も続いた平安時代
自分にとっては巨人。
まずはこの詩から、
“新京楽 平安楽土 万年春 ハレ、新京、平安、万々歳 ”


先月、また貴重な連休を頂いたので、
久しぶりに憧れてた京都に赴いてみました。
今はずっと寒波が襲来して寒い日が続いていますが、
正月を過ぎて、何日かよく晴れていました。


最初に、
一一一七年十二月十三日に待賢門院璋子が鳥羽天皇との婚礼の儀に臨んだという
土御門内裏跡を目指しました。
それは清盛が生まれる一年前のこと。

ほんの近くには護王神社があって、
なかには突然、和気清麻呂像。


和気清麻呂といえば、
坂上田村麻呂とともに桓武天皇の右腕となった人物。
一八八六年に、清麻呂を護王善神として祀っていた神護寺から京都御所の西に
移されたのが護王神社だそうです。



清麻呂像の後ろには、
国家『君が代』のなかに出て来る“さざれ石”がありました。
いろいろ出向いてみるとこういういろんな発見があります。



なお土御門内裏跡の碑は、画面には映しませんでしたがこの護王神社のすぐとなりの
京都ガーデンパレスにありました。


この日はほんとにすっきり晴れ渡っていました。
冬晴れでした。


次に、京都市内北部の真ん中あたりにある北野天満宮に行きました。



祭神は学問の神様“菅原道真



社殿の裏のほうに行ってみました。
こんな感じで…。


ぐるっとまわって少し行くと、御土居の看板が。




御土居の看板のとなりには歌碑が。
この歌碑は菅原道真のことを歌ったものか…
くわしい内容は忘れてしまいました。



来た道後ろをふり返って。
この御土居の部分、
少し高くなっているのがわかるでしょう。



そして階段を登りきると、
大きな欅の木が。
看板にある通り、樹齢六百年のようです。


欅の木を少し離れてみて。

ちょうどここが御土居の頂上で、
画面には写っていませんが、左側は5メートル以上…
土地が傾斜して落ち込んでいます。


一回りして、
社殿にもどって来ました。


べつに、自分は受験生でもありませんが、
学問の神様に参拝しました。



小学校六年、
六年生で初めて社会科で歴史を学びました。
今もそうなんでしょうか…?
その小学校六年生の時の担任の先生が歴史の授業の時に、
“平家の栄華はわずか二十年と言われています…”
そう言っていたのを今でもはっきりと憶えています。


その時の教科書はもう捨ててしまって現物はないのですが、
おぼろげながら源平の時代のことがおおまかに1ページか、2ページぐらいの範囲で書かれてあったのを憶えています。
せっかく栄華を築いていたのに…って、
平家のことが自分のことのように思えたのです。
別に自分は平家の子孫でもなんでもありません。
でも、自分が好きなもの、自分が支持するものを
そのわけを答えろと言われても、
返答に苦しみます。
自分が好きな人や物事
もしかするとそれは自分と共通性があるのかもしれません、
少しそう思います。


正直、
平家を滅ぼした義経に対して、
その時子供ながらかなり強い嫌悪の念を持ったものです。


傲慢であろうが悪人であろうがいいじゃないですか。
好きなものは好きです。


《 “夜泣きすとただもりたてよ末の世にきよくさかふることもこそあれ…
 さてこそ清盛とはなのられけれ。”
                    平家物語祇園女御』より 》


次に、
待賢門院璋子が天安寺を復興して建立したという法金剛院に行ってみました。
これは、青女の滝。
待賢門院が造らせたもので、
現存する人工の滝では最古のもののようです。




そして庭園のなかの池です。
青女の滝は池の向こうの端の山すそです。



ここは、嵐山。



この風景、
数年前に初めて来た時には、
桜の散った四月の終わりで、うららかな季節でした。


初めてこの風景を見た時に、
たしかいつか夢で見たような、不思議な感覚に襲われたのです。
ほんとに夢の中にいるような不思議な、うっとりとした感覚でした。


正夢? まさか…。




これは、おなじみの渡月橋
この嵐山も祇園とともに、
京都のなかでとくに好きな場所です。



そして、
嵐山渡月橋からも、そう離れていない大覚寺に行ってみました。
光りがこだまして来るようで、回廊がきれいですね。




大沢池です。
嵯峨天皇離宮だったようです。




平家に関して、
その後中学になって、平家の歴史を描いたある本を読んでいました。
マンガの本だったのですが、わかりやすく所々に平家史跡の写真も付いていたと思います。
もうその時におおよその平家のストーリーが頭のなかに入っていたのです。
街の本屋で買って、いつも寝る前に読んでいたように思います。
それで最終に書かれてあった清盛の娘、建礼門院徳子の物語を読んで、
ひどく悲哀の念にとりつかれていたのを憶えています。
その時、建礼門院には同情しました。
もう一族はちりじりになってしまい、源氏の世になってしまっています。
平家を滅ぼしたあの義経や頼朝も、建礼門院より先に亡くなっています。
そんななかで、あの人里離れた大原寂光院でどんな思いで余生を過ごしたのだろうかと…。



そして、
これは京都ではおなじみの風景です。
前方は八坂の塔
数年前にこの辺をよく散策したものです。
塀の色と、石畳の道がほんとにいいですね。
ここは六波羅から近いですが、
平安時代末、清盛もこの辺を何度か訪れていたのでしょうか。




最後に、三十三間堂に行ってみました。
三十三間堂はよく知っているんですが、
この日初めて中に入ってみました。



中央の巨像(中尊)と、一〇〇〇体の千手千眼観世音菩薩を生で見て、
圧倒されました。
御存知のように三十三間堂は、正式には蓮華王院といいます。
蓮華王とは千手観音の別称です。



僕が平家の歴史に本格的に触れ、
各地の平家史跡を巡り歩いていたのは今から五年前の二〇〇七年でした。
もうその時のわくわく躍り上がるような気持ちにはなれません。
ある友人が、“映画は最初に観た感動を大切にしまっておいたほうがいい…”と、
いつか言っていました。
だから、“この時代”のことは封印してしばらく触れずに置いておこうと思ってました。
何度もその扉を開けて見てしまうと、最初のあざやかな感動は廃れ淀んでしまいますから。
しかし、
忘れてしまったことや、まだ知らないことがあって、
少し、振り返ってみているのです。
平清盛』をやってますよね…。


年月って、どうとらえればいいんでしょうね。
不思議なもので、十年経とうが百年経とうが千年経とうが、地球の分子は変わってないはずなのです。
生物の遺伝子は、少し進化しているかもしれませんが…。
でも、
その時代、
その時に吹いていた風はもう二度と吹きませんから。
ずっと、時代は塗り変えられて行くのです。
“歴史”って、そういう意味もあるのでしょうか…。


“新京楽 平安楽土 万年春 ハレ 新京 平安 万々歳”

新都に平安京の佳号をつけたのは、凶事の発生を避けようとする気持ちをあらわしたもののようです。
延暦十四年の正月に宮中で行われた踏歌(あらればしり)のくりかえしことばに盛り込まれています。

三山、比較して

もう、
二〇〇七年当時の気持ちにもどることはなかなか難しいんです。
あの時はうきうき心躍らせていました。
何か走馬灯のようにその当時の情景が脳裏をよぎったんですが、
時間が経過しますと、
心も入れ替わってしまいます。
世の風とともに心も絶えず変化しているようですね。
それも心の動きの基となる遺伝子が進化しているからなのでしょうか。
新しい何かを欲しているようです。


でもあえてこの時代をまた語ります。


はじめてこの場所に来た時、
義経の軍団が雄叫びをあげながら、
まるでインディアンのように怒涛の如く駆け下りて来て、
自分が立つその場所は、どんなすさまじい光景が広がっていたのだろうと、
自分なりにその時を想像しました。


そして、どこから下りて来たのかと、
じっと山の頂の方を見つめていました。
もうその時に自分がいるような感覚で。


これから見る山は全て戦場を見て来た山です。
この写真、真っ青なんですが、
自分のイメージからすれば灰色の曇り空のほうが好ましいですね。
須磨の鉢伏山を見上げたところです。



はじめの予定では、二月四日が総攻撃の期日とされましたが、
ちょうど三年前の治承五年(一一八一)閏二月四日に清盛が亡くなったので、
この日はその命日に当たり、仏事供養が営まれるというのでこれを避け、
五日・六日は日柄が悪いということで、二月七日の卯の一点(午前六時)を攻撃開始の日時と定められました。
源平一の谷の戦い、“鵯越の坂落とし”です。



“ ゑい 〃 声をしのびにして、馬に力をつけておとす。
あまりのいぶせさに、目をふさいでぞおとしける。
おほかた人のしわざとは見えず。ただ鬼人の所為とぞ見えたりける。
おとしもはてねば時をどっとつくる。
三千余騎が声なれど、山びこにこたへて十万余騎とぞきこえける…。”


平家物語、巻第九『坂落』より。



ぼやけてますが、こちらの曇り空の写真のほうが自分の中のイメージに合います。



ここも、
全部砂浜だったでしょう、その当時。
美しい砂浜が神戸の方まで延々と続いていたはずです。


ここから見る鉢伏山と鉄拐山も、とても胸に迫っていました。
あの時。


そしてこれは、わが町にある観音山(かんのんさん)という山です。
平面的な枠の中に収まっている写真ですので、
奥行きや立体感や距離感がつかみにくいと思うのですがどうでしょうか。
須磨の鉢伏山、鉄拐山の山並みと自分のなかで、だぶって見えてしまうんです。




それというのも、
標高もあまり変わらないんです。
須磨の鉢伏山が246m。
この観音山が245m。
文献によっては鉢伏山が256mだったり、
自分が実際に鉢伏山頂に登った時はたしか260mという石碑が建っていたと思うんですが…。
多少誤差がありますが、大差はないと思います。



この角度で見るとよくわかるんですが、
はっとよぎるんです、一の谷の坂落としが。
“あ、上から義経が…”と、思ってしまうんです。
でも、ここは自分の町にそびえ立つ観音山なのです。



この角度から見ても、少し似てますよね。
どうでしょうか。


この山の麓には、観世音相応峰寺というお寺があり、奈良時代天平九(七三七)年に行基が創建したといいます。
一時は十二院もありましたが、天正八(一五八〇)年には、秀吉の但馬征伐で全山焼失となりました。



そして最後の三つ目がこの鳥取城跡のある久松山(きゅうしょうざん)。
この山もここから見て、“坂落とし”がよぎってしまうんです。
この辺の距離から眺めると自分にはすごく胸に迫ります。



標高263m。
この山はほんとにそそり立っています、
巨大な要塞の如く。
“四方離れて、嶮しき山城なり”と、信長公記にも記されています。
小さな枠組みの中に入ってしまった写真ですが、生で見てみるともう少し迫力があります。



この久松山は戦国時代の天正九(一五八一)年に豊臣秀吉による鳥取城の渇殺し(かつえごろし)と呼ば
れる攻城戦が行われました。



城主、吉川経家の守る鳥取城を七月より十月まで三、四ヶ月の間包囲して落城させたといわれます。
鳥取市内から眺めたところです。



以上見て来ましたこの三つの山は、
それぞれ戦場を見て来た山です。
標高もみんなだいたいいっしょなんです。大差はないと思います。
山容も似通っています。
だから我が町の観音山、鳥取城跡のある久松山を見ると、
寿永三(一一八四)年の一の谷の戦いの、“鵯越の坂落とし”がよぎってしまうんです。
ひとつ言えることは、この久松山だけは“坂落とし”は出来ないと思います。
やろうものなら馬と一緒に下まで転げ落ちてしまいます。
それほど久松山は急峻な山です。


この記事は一年以上保存してしまってたんです。
公開されないまま没にする… 予定でした。
シングルカットされないレコードのB面曲のようなものです。
この三つの山のことは自分の中でずうっとひっかかってたことです。

卒都婆流

卒塔婆”(そとば)とは、
サンスクリットの“stupa”(ストゥーパ)の音訳で、塔婆とも略し、
もとは仏舎利を安置するための建築物を意味しました。
現在の日本では、追善供養のために文字を書き、墓の脇に立てる塔の形をした木片のことを
卒塔婆と呼ぶことが多いようです。
これを特に板塔婆(いたとうば)と呼ぶこともあります。
日本における木製の卒塔婆は、平安時代末期から鎌倉時代初期の頃には使用されていたものとみられます。
また、率塔婆、卒都婆とも書きます。


一一七七年、平家打倒の密議“鹿ケ谷の陰謀”に加担した俊寛僧都、平康頼、藤原成経の三人は、
鬼界ヶ島に流されてしまいました。
鬼界ヶ島の現地比定には諸説あり、現在でも喜界島説、硫黄島説、南島の総称説などがあるようです。
そして康頼は卒都婆に願いを込めて、海に放ったのでした…。



では、
物語に入って行きます。



平家物語、巻第二 “卒都婆流”(そとばながし)



『 康頼入道、古郷の恋しきままに、せめてのはかりことに、

千本の卒都婆を作り、阿字(あじ)の梵字(ぼんじ)、年号月日、仮名実名、二首の歌をぞ書いたりける。


“さつまがたおきの小島に我ありとおやにはつげよやへのしほかぜ”

“思ひやれしばしと思ふ旅だにもなほふるさとはこひしきものを”


是を浦にもって出でて、「南無帰命頂礼(なむきみょうちょうらい)、梵天帝尺(ぼんでんたいしゃく)、
四大天王、堅牢地神(けんろうぢしん)、王城の鎮守諸大明神、
殊には熊野権現厳島大明神、せめては一本なりとも、都へ伝へてたべ」とて、
興津白浪の、寄せてはかへるたびごとに、卒都婆を海にぞ浮かべける。
卒都婆を作り出すに随って、海に入れければ、日数つもれば、卒都婆のかずもつもり、
その思ふ心や便の風ともなりたりけむ、又神明仏陀もやおくらせ給ひけむ、
千本の卒都婆のなかに、一本、安芸国厳島の大明神の御まへの渚に、うちあげたり…。』


☆現代語訳
《康頼入道は故郷が恋しいままに、せめてもの方策として千本の卒都婆を作り、阿字の梵字と年号、
月日、通称、実名を書き、二首の歌を書いた。


“薩摩潟の沖の小島に自分が居ると、故郷の親には是非知らせてくれ、八潮の潮風よ”


“ほんのしばらくと思う旅でさえやはり故郷は恋しいものなのに、ましていつ帰れるかもわからない、
今の自分の心中を思いやってくれ”


これを海岸に持って出て
「南無帰明頂礼、梵天帝釈、四大天王、堅牢地神
王城の鎮守諸大明神、特に熊野権現厳島大明神、せめてこの卒都婆の一本でも、
都へ伝えてください」
といって、沖の白波の寄せては返るそのたびごとに、卒都婆を海に流した。卒都婆を作り出すとすぐ
それを海に入れたので、日数が重なると、卒都婆の数も多くなり、その思う心が卒都婆を内地に
吹き送る幸便の風ともなったのだろうか、あるいはまた神仏もお送りくださったのだろうか、千本流した
卒都婆のなかで、一本だけが安芸国厳島の大明神の社前の波打ちぎわに、打ち上げられた…。》




千本のなかの一本が、鹿児島の南の太平洋の中(東シナ海との中間)に浮かぶ鬼界ヶ島から、
内海の安芸の厳島に流れ着くなんて、
まずあるはずもありません。
康頼がほんとに卒塔婆を作ったかどうかもわかりませんし…。
これは劇的で、美しすぎる虚構だと、
素人が見てもわかるんですが、
ただ虚構だからと流してしまうんではなくて、
その時代の思い、平家物語を書いた作者の思いを受け入れてみると、
世界観がかなり違ってくるんじゃないかなと、
素人ながら生意気にもそう思うんです。
そして情景が浮かんでくるんです。
この“卒都婆流”の物語、好きです。
あえて、ストーリーと書かずに“物語”と書きました、日本人ですから。



そして、京都市内を南北に走る千本通りの名のおこりは、
蓮台野への道に千本もの卒塔婆を立てたことによるといわれているようです。

八八九

“其先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王
九代の後胤、讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛朝臣の嫡男なり。
親王の御子、高視の王、無官無位にしてうせ給ひぬ。
其御子、高望の王の時、始めて平の姓を給はって、上総介になり給ひしより、
忽ちに王氏を出でて人臣につらなる。
其子鎮守府将軍良望、後には、国香とあらたむ。国香より
正盛にいたるまで六代は、諸国の守領たりしかども、
殿上の仙籍をばいまだゆるされず。”


平家物語、『祇園精舎』より。



御存知のように、清盛周辺の平家一族は、高望流桓武平氏の祖である高望王
の時に始めて平姓を賜りました。
ではその高望王が生きた時代はどういう世の中だったのでしょうか。



9世紀〜10世紀は、唐の衰亡と関連して東アジアに大きな変動の起こった時期
です。日本でも中国にならった律令制が崩壊し、農村における社会の変動を
背景に、藤原北家による摂関政治の体制が形成されました。
時の天皇宇多天皇(867.5.5〜931.7.19、在位887.8.26〜897.7.3)です。
天皇は院宮王臣家による私的支配の進行を阻止し、律令制支配の維持を
はかる一連の政策を実施しました。
また、菅原道真蔵人頭に補し、五位蔵人をおき、蔵人式を撰定させるなど、
蔵人所を充実させ、京中の治安維持にあたる検非違使の制度も、左右検非違
使庁を定めて毎日政を行わせ、その職掌を定めるなど、
この時期に大いに整備拡充されました。
関白の初例を開いた藤原基経もこの時代に生きています。



余談ですが先日、テレビのNHKで『シリーズ大震災発掘第一回埋もれた警告』
というタイトルで、869年に起きた貞観津波(じょうがんつなみ)のことを言ってい
ました。
貞観地震は平安前期の貞観11年5月26日(ユリウス暦869年7月9日、グレゴ
リオ暦7月13日)に日本の陸奥国東方の海底を震源として発生した巨大地震です。
この時に押し寄せた津波のことは、平安時代に編纂された『日本三代実録』に記
されているようです。
仙台平野の下に貞観津波の痕跡が眠っていることを1986年に初めて発見した
のは東北大学教授の箕浦幸治氏でした。テレビですがそういうものを見ると、
その時代が至近距離のように見えてしまいます。


高望王が平朝臣となったのはそれから20年後の889年頃のようです。
日本三代実録宇多天皇の命により、菅原道真も編纂に関わっているので、
貞観地震津波のことは道真はもちろんのこと、この時代を生きた在原業平や、
藤原基経高望王の耳にも入っていたのかも知れませんね。
(この辺は詳しいことは知りません)



平家の全盛期は正盛、忠盛、清盛の時代ですが、
やっぱり、平家の歴史はこの高望王から始まるととらえたほうがいいのかも知れ
ません…。

歴史に仮定は出来ない…

最近、ある本に書かれていたことなんですが、
平忠盛保元の乱まで存命であったならば、
その後の歴史はどうなっていたか…
ということなんですけども。
というのは、保元の乱というのは、
藤原摂関家の内紛と、天皇家の内紛とが結びついて起こった都においての争乱なんですが、
源氏の親子の為義と義朝は、父為義は崇徳上皇方へ、子の義朝は後白河天皇方へ。
一方平氏の甥、叔父の関係にある清盛と忠正は、清盛は後白河天皇方へ、忠正は
崇徳上皇方へついて身内同士が敵味方に分かれて戦ったのですが、
忠盛は、崇徳上皇と親密な関係にあったのです。
それというのは忠盛は崇徳上皇の子、重仁親王の乳母夫となっていました。
そして祇園闘乱事件でも崇徳上皇は忠盛を援護しています。
忠盛は保元の乱の三年前の一一五三年に亡くなってしまうんですが、
もし、あと少し、
保元の乱まで生きていたらどうであったか、
親密であった崇徳上皇方について清盛と敵対して闘っていたかも知れない…。
となれば、もしかすると清盛の出る幕もなく、平氏政権もなく、
さらには、平安時代がもう少し永く続いていたかも知れないという大胆な仮説なんですが、
どうなんでしょうかね…。



それとは別に、自分としては本能寺の変がなくて信長がその後も存命であれば、
その後の日本はどうなっていたのか…。
このことに、強い関心があります。
これは自分だけじゃなく、誰もが興味を持っていることだと思います。
信長存命であれば、鎖国がなくてもっと海外の文化を早くから取り入れていたのではないか…。
いろいろありますが、
歴史に仮定は出来ないということです。