平家の貴公子、平重衡の捕らわれの松跡

これは、平重衡捕らわれの松跡です。山陽電鉄須磨寺駅の入り口のかたわらにあります。


一の谷の合戦の時、重衡が生け捕りにされた場所とつたえられている所です。ここへ来るのはこの日が初めてです。捕らわれの“ 松 ”とは何でしょうか? 重衡が生け捕りにされた場所に松の木が立っていたからなのでしょうか? くわしくは調査してませんのでそのあたりはまだわかりません…。
平家の武勇伝といいますと誰を思い浮かべますか?  平清盛最愛の息子といわれた平知盛ですか? 知盛も勇ましい武将でした。「見るべき程の事は見つ…」と言って壇ノ浦の海に沈んで行った人です。知盛も好きです。しかしこの重衡を見逃してはいけないと思います。僕はこの重衡に心打たれてなりません。重衡の武勇は個人については墨俣・水島・室山と連戦連勝だったようです。重衡の武勇はどちらかというと平家物語よりも『玉葉』、『吉記』などに確かな記録があるようです。平家物語での、特に奈良炎上(南都焼き討ち)は平家の悪行の最たるものといわれています。その南都攻めの時は総大将として焼き討ちを決行し、東大寺の大仏を含め、奈良の街すべてを焼き尽くしてしまいました。当時の大仏は、国家の象徴のようなものですから、たいへんな大罪を犯してしまったわけです。若い盛りというのは勢いにまかせて気の向くまま思うままに行動をとってしまうものです。若武者の重衡も大胆な行動をとってしまったのでしょう。
連勝を続けていた重衡の武勇について、平家物語はそれほどふれていませんが、虜囚になってから突如雄弁になります。ということは、平家物語の作者は重衡を悲劇のヒーロー的に描きたかったのではないでしょうか? 明朗でやさしく女性にも人気があったようです。平家物語の中で、捕らわれの身となってからも四人の女性に会い好意を寄せられます。なかでも千手(せんじゅ)が有名です…。
虜囚となった重衡は鎌倉へ護送され頼朝に会いますが、潔さを気に入られてしまいます。その鎌倉滞在中の酒宴で千手と出会います。千手は重衡にお酌をしたり朗詠を歌ったりしてもてなしました。その後重衡が奈良へ連れて行かれて処刑されたことが伝わると、尼になって信濃善光寺で重衡の冥福を祈り、極楽往生したということです…。              
重衡はつかの間の優雅な鎌倉の滞在期間でしたが、大仏を含め奈良の街を焼き尽くしてしまったことを仏敵とされ興福寺東大寺の僧侶が許さず、重衡は今度は奈良へ護送されます。途中日野(京都府伏見区)で重衡の正妻といわれた大納言佐(だいなごんのすけ)と最後の別れをし、木津川のほとりで処刑されたのでした。重衡は、罪を償わなければならなかったのです。平家物語を読んでいましても、最後は涙をそそられる思いです。
下の写真は重衡が処刑された木津川のほとりにある安福寺というお寺です。重衡を弔うために処刑されたのちにその付近に建てられたということです。去年の6月に訪れた時のものですが、“写るんです”で撮ったものをもう一度写し直したのでリアリティーが半減してます。寺内には重衡を弔う十三重の塔があります。墓は京都府伏見区の日野にあるそうですが、そこへはまだ行っていません。