平家の落人村4、鳥取県中津村

ここ、中津村は鳥取県は三朝町の山奥にあります。三朝町から途中道を右に分かれ、小鹿川の流れる谷をずっと奥へ奥へ登りつめたところにあります。この部落には平家の末裔といわれる平、平井、将門といった姓があるそうです。また安徳天皇御陵や二位の尼墓所などがあります。安徳天皇御陵は以前紹介しました鳥取県姫路村にもあるのですが…。二位の尼は、平清盛の妻、平時子のことですね。


秋を彩るすすき。中津村はすすきにつつまれていました。


先ほどの写真の中津の標識のところから少し前方に行くと橋がかかっていまして、その橋を渡ったすぐ左側の山の斜面にこのような平家部落を証明するかのような平家一門の墓があります。そして左前方に見えます小道を10メートルほど前へ行った道の左わきに二位の尼墓所があります。


二位の尼墓所の看板。以前はもっと上のほうにくくりつけられていたようですが、今はこのように地面に落ちてしまっています。


落ちていた看板のすぐとなりです。これが二位の尼墓所

中津古文書によれば、一の谷落城後西海に走る直前、平家の知将たちは平家没落のまぬがれない運命を察し、安徳天皇に安全の地へご潜幸を願い、機会をまって平家を再興するため、その場所を中津の地に求めた。先達は滝口次郎時貞と平通盛夫人の乳母の二人で、仏門に入り普賢菩薩を守って中津に到着した。安徳帝一行は播磨から美作に入り、津山から奥津、上斉原を経たのであろうといわれています。
また別の古文書によれば、 『 普賢菩薩は帝より祖父忠盛が拝領以来、平家無二の本尊なり。しかるに摂州一の谷落城の節、滝口次郎命にしたがい、当所にたずねきたり、庵を結んで安置し奉る 』とあります。
そして、普賢菩薩縁起書によれば、『 播磨中津の港より探り来たる故にや、世の人みな中津の普賢菩薩といい伝えて、いつしか村の号となりぬ 』とあります。
中津の港とは、加古川市中津のことのようです。地図で調べましたら、確かに、中津はあります。 
まだ行ったことはありませんが。

村のなかほどに赤い屋根の家がありました。すこし印象的です。


ほんとうにこの村は人が住んでいるのかと疑ってしまうぐらい静まり返っていました。


しかしその安徳天皇御陵がどこにあるのだろうと探し回りましたが、一面に繁茂するすすきなどに遮られ見つけることはできませんでした。


村のなかにはこのように家屋が崩れて廃墟になっているところが所々あります。あるいは崩れた家屋はすべて撤去され、敷地だけになっていたり…。むかしはカヤブキ屋根の農家が六十三戸もあったらしいのですが、今はそんな面影もありません。そしてこの廃墟、2年前に来た時はもっと家屋の崩れた柱や屋根がしっかり残っていて形をとどめていたのですが、ほとんど撤去されてしまったのか、わずかに残骸が残っているといった感じです。こうしてどんどん廃れて行くのでしょう。 時は風…。 平家物語の “ 風の前の塵に同じ… ”という冒頭の句が浮かんできます。


近いうちにこの村は人がいなくなってしまうでしょう。かろうじて集落としての営みが残されているといった感じでした…。


帰り、道路わきにもみじがあざやかに照らされていました。やはりこの時期になると気温の低下とともに物悲しさを感じてしまいます…。