万葉の色

万葉は、万(よろず)の言の葉… 万代の集… 多くの詩華の集… 藍はタデ科の一年草アイからとった染料。 平安時代頃までは野生の山藍ですった青緑色が藍で、藍染による青色を藍というのは中世以降のよう。 茜はアカネ科の多年生蔓草で、橙色の根からやや沈んだ赤…

古代の地方行政府、国府

国府は奈良・平安時代、中央の朝廷が地方を治めるために設けた計画的な政治都市で、 当時の政治・経済・文化の中心地でありました。 この付近一帯は、古代の計画的な土地区画整理事業ともいえる「条里制」が実施され、 整然とした区割りがあったとされています…

桜咲いて

ここは朱雀門。 前方の道は朱雀大路。 平城京の朱雀大路の路面幅は、六十七メートルほどもあったようです。 ここから真っ直ぐ行けば、羅城門に突き当たり、 羅城門をくぐればそのまま下ツ道となり、藤原京へと続いています。 七〇七年、子の文武天皇の譲位の…

下ツ道を通って

古代、奈良盆地には南北に三本の道が走っていました。 東から、上ツ道、中ツ道、下ツ道。 このうちの下ツ道は、平城京の中心となる朱雀大路にもあてられ、さらにその痕跡は 平城宮内を貫通して北に延びていたようです。 そして、奈良盆地における条里制施行…

悠紀殿、求めて

あおによし 奈良の都は 咲く花のにほふがごとく 今さかりなり 夕方、平城遷都1300年祭の余韻の残る、この奈良の平城宮跡に着きました。 少し日が永くなってきた今日この頃。 風は冷たかったですが、空は晴れ渡っていました。 これは復元された宮内省の建…

因幡の国司

奈良時代から平安時代にかけての、比較的名前の知られた因幡の国司を紹介します。 船秦勝 (ふねのはたかつ) 守。従五位下。文武四年(七〇〇)、因幡国守として最初に名前が登場。朝廷から封三十戸を賜った。その二年前に銅鉱を献上したことが認められたのか。…

伯耆国庁法華寺畑遺跡

旅人は神亀四年(七二七)には、遠の朝廷(とおのみかど)といわれた九州の大宰師に左遷された。 このとき、幼い家持も一緒に九州へ下ったようです。 旅人にとってこの地で最も大きな打撃だったのは、愛する妻の大伴郎女を病気で亡くしたことだったのです。 “世…

悠紀の国

悠紀(ゆき)の国は、大嘗祭にあたり、悠紀殿(ゆきでん)での夕御饌(ゆうみけ)として供進するための新穀を奉るように定められた国のこと。 悠紀殿は、大嘗祭に際して造営される大嘗宮のうち、東方に設置される殿舎です。大嘗宮の建設地は、古くは大極殿または紫…

三月三日、春の雪に降られて

二月は、あたたかく好天の日が続きましたが、このまま春に向かうのはやはり甘く、天は許してくれませんでした。思った通り、彼岸の頃までは寒さがぶり返すことがあります。 前回の記事と同じく、雪の降りしきる因幡国府となりましたが、家持が万葉集最後の歌…

伊勢物語〜第五十九段 東山

最近めっきり春めいてきて、今までの寒さはどこに行ったのかというような日々の天候なのですが、でもまだ彼岸の頃まではわかりません。 伊勢物語は事実をそのとおりに書いた物語ではないようですが、何かその背景に物語の土台となるものが含まれているように…

在原行平の歌碑

たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとしきかば 今かへりこむ これは、『小倉百人一首』のなかに収められている有名な歌です。 前回の記事でも、去年の因幡国府の記事でも紹介しました。 大伴家持歌碑のところの道路をはさんで反対側にあります。 斉衡二…

雪の因幡国府

しばらく暖かい日が続いていましたが、二月に入って久しぶりの雪が降り、 因幡国府に行ってみました。 大伴家持がこの歌を詠んだ時の、その時に行ってみることができるような気がして。 ずっと以前から雪の因幡国府に行ってみなければならないと思ってました…

三十六歌仙

三十六歌仙は、藤原公任の『三十六人撰』に選ばれた歌人である。 柿本人麻呂 紀貫之 凡河内躬恒 伊勢 大伴家持 山部赤人 在原業平 僧正遍照 素性法師 紀友則 猿丸太夫 小野小町 藤原兼輔 藤原朝忠 藤原敦忠 藤原高光 源公忠 壬生忠岑 斎宮女御(徽子女王) 大…

伊勢物語〜序章への旅

休みをもらい、奈良の春日の里へ行ってみました。 奈良公園には鹿がたくさんいて、人になついていてかわいいもの。 この辺の風景も、大学時代よく見ていた風景です。 伊勢物語は、平安時代の歌物語であり、作者と成立年はよくわかっていないようです。 しか…

賀茂斎院

京都、上賀茂・下鴨神社と呼ばれることになるカモ神社の成立について述べます。 『賀茂・鴨』、あるいは『加茂・可茂』などと書くカモの神は、もとは大和の西南部、葛城地方にあった神のようです。 『風土記』によると、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと…

二方神社

これは兵庫県美方郡新温泉町浜坂にある二方神社(ふたかたじんじゃ) です。 美方郡はかつて明治の中ごろまでは但馬国二方郡(ふたかたぐん)と呼ばれていました。 国名の由来を見ていくことにします。 二方郡は明治二十九(一八九六)年三月に、南接する七美郡(し…

荒砂神社

荒砂神社は鳥取県岩美町の浦富海岸にあります。 元亀三年桐山城にいた山中鹿之助がこの社に戦勝祈願をし、鳥取城攻略をしました。 海辺の小山の上にあり、ここから東側には浦富海岸が延々と広がっており、風光明媚なところです。 ここにいると、いつも波の音…

宇部神社

これは鳥取県国府町宮下にある宇部神社(うべじんじゃ)です。 ] 平安時代の因幡の政務の一端を伝える記録に「時範記」があります。 時範記は、平時範が承徳三(一〇九九)年二月に国守として因幡国に下るところからはじまります。 京を出て山崎に宿泊した一行は…

白兎神社

これは兎(うさぎ)に見えますか。 ここは、稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)の神話で有名な鳥取市の白兎海岸(はくとかいがん)です。 『古事記』が、“是に気多(けた)の前に至りし時、裸の兎伏せりき”と語っているのはこの風景の描写ではないかと見られています…

越後の龍、上杉謙信への旅

心配した天候でしたが、意外にも、越後は少し晴れ間を見せてくれました。越後への道のりの最終地点、北陸自動車道上越出口が見えた時、込み上げました。平清盛とともに、僕が日本歴史上で崇拝する人物がもう一人いました。平氏滅亡の壇ノ浦の戦いの年から三…

兵庫県御崎村、門脇宰相平教盛の墓

となり町の親戚に用があったついでに、今度こそは…と思い餘部の海辺の信号を左に折れ、断崖伝いに再度御崎を訪れてみました。冬型の天候なのか、朝からあられまじりの冷たい雨と風が吹きつけていました。海は荒れて大シケ、空は鉛色。冬の顔を見せつけていま…

平家の落人村11、兵庫県三尾

兵庫県新温泉町にある海辺の部落三尾(みお)は、以前紹介しました宇日、田久日、鎧と同様に海岸沿いの断崖の間に挟まれた孤立した地区です。何年か前に夕方のテレビのニュースで、“日本一海に近い小学校”というタイトルで放映されたことがありました。画面の…

平家の落人村10、兵庫県鎧

兵庫県香美町にあるこの鎧(よろい)部落にも平家落人の伝承があるようです。以前紹介しました御崎部落から車で15分ほどでしょうか。 前回、前々回と紹介しました越中次郎兵衛盛継の末裔と称した越中家があるようです。細かく調べたわけではありませんのでど…

平家の落人村9、兵庫県宇日村

この部落は前回の記事の田久日部落と隣接していて、ともに越中次郎兵衛盛継と景清が落ちて来たという伝承を持っています。今現在はこうして断崖の中腹に道路がついていますが、その昔は海岸伝いにこの部落へ行くことはまず不可能だったと思います。だからお…

平家の落人村8、兵庫県田久日村

この部落にも越中次郎兵衛盛継が落ちて来たという伝承があります。盛継の供養塔のある城崎を過ぎて海伝いの断崖絶壁をしばらく行くとこの部落に辿り着きます。海に面した狭い谷間に家々が密集しています。この辺りは、昭和40年、但馬海岸有料道路が開通す…

兵庫県城崎温泉、越中次郎兵衛盛継の供養塔

ここは兵庫県豊岡市を流れる円山川の河口部です。まだ午前10時頃で前方からの光線が眩しいですね。 この付近には平家の家人であった越中次郎兵衛盛継(えっちゅうじろうびょうえもりつぐ)の伝説があります。但馬に41か所ある平家伝承地の中で唯一史実と言…

平家伝承地3〜広島県音戸の瀬戸

ここは広島県呉市と音戸町の境界にある音戸の瀬戸です。この画像と記事も前回、前々回の記事とともに同じ行程で訪れた時のものです。同じく生写真をもう一度写しなおしたものです。 ここはかつては地続きだったのですが、交通の妨げとなっていたため平清盛の…

平家伝承地2、広島県竹原市忠海

広島県竹原市の海辺の静かな街、忠海(ただのうみ)は平忠盛の忠を冠してつけられたものだといわれています。 これは、前回の記事で述べました日ノ浦を訪れた帰りにここに立ち寄った時のものです。いずれも生写真をもう一度写しなおしたものです。 忠盛は何度…

平家伝承地、広島県安浦町日ノ浦

ここは広島県安浦町の三津口湾の南側にある日ノ浦という小さな入り江です。何の変哲もない瀬戸内海の片隅の小さな入り江です。平家落人が山陽道から四国へ渡る拠点としてここを設定したことは間違いないと推測されている所です。 この写真は2年前の10月に…

平家伝説、兵庫県横行村の姫ヶ淵

この日、再び横行村の平家伝説、村の奥地に隠れ潜んだ落人の姫が身を投じたという“姫ヶ淵”を求めて、横行村のさらに奥の谷間へ、足を運んでみました。 朝から冷たい雨が降り、途中引き返そうかと思いました。しかし国道の峠を越えるとなぜか雨はぷっつりと止…